旧帝国海軍:軍艦利根資料館、再び
8月23日、江田島にある軍艦利根資料館を再訪しました。はじめて訪れたのが2009年5月のことなので、5年ぶりの訪問です。
軍艦利根戦没者慰霊碑
最初に軍艦利根戦没者慰霊碑のことを。県道36号から能美海上ロッジへの道途中に利根公園として整備されている場所があります。その利根公園の中に慰霊碑があります。
利根は1945(昭和20)年5月にこの地に避難していましたが、7月24日から波状的に米空母艦載機の攻撃を受け7月28日にこの地に大破着底。この空襲により利根では乗員128名の戦死者を出しました。また、町の被害もとても大きいものとなり、17名の犠牲者がでました。
昭和40年に地元有志により委員会が結成され、同年7月この慰霊碑は建立されました。資料館はこの慰霊碑の奥にみえる建物です。また、利根の解体作業中に遺骨が拾い集められて能美町中町の中町軍人墓地の一角に供養されたそうです。
軍艦利根資料館
軍艦利根資料館の中へ。2009年5月の訪問記(?)では個々の展示物に触れることはしませんでしたので、いくつか触れたいと思います。最初は速力通信機。
「速力通信機」の名のとおり、速力を通信する機械。ブリッジから機関室にエンジン出力(速力)の指示を伝える(通信)機械です。たとえばこのハンドルを微速前進とすると機関室に微速前進の指示が伝わるという感じ。そして機関室のほうで出力を調整します。
指揮官からの速力指示を受けて、チンチンチンといった音とともにこの速力通信機を使う場面を思い出すことができるのではないでしょうか?
そしてコンパスを2つ。
実は私自身、詳しいことはわかりません(^^;。ただ、私が見学しているときに若い男性が2人やってきて、このコンパスのみをしきりに確認して数分で退館されました。艦これ人気に伴って江田島へも訪問者が増えているという話をききますが、そういった方々だったのでしょうか。でも... コンパスだよな...
ここからは大破着底した7月28日に関係する展示物を。最初は攻撃してきた米空母艦載機の乗組員たち。
江田島にも墜落した米空母艦載機の搭乗員のお墓があるというページをみたことがあります。戦争というとても大きな事例において敵国の個々の戦士を責めるというのは感情としてはわかりますが、大きな視点から考えると、彼・彼女らも戦争の被害者に違いありません。ただ、実際に自分にとって大切な方が被害にあっていたらそんなことも言えないんだろうな。やはり戦争というのは、しないで済むのであればしないにこしたことはありません。
最後に大破着底した利根の写真。
太平洋戦争では真珠湾攻撃にはじまりポートダーウィン攻撃、そしてミッドウェイ海戦、ソロモン沖海戦、マリアナ沖海戦と多くの海戦に参加しました。そして終戦間際の1945(昭和20)年7月に江田島のこの場所で大破着底した利根。太平洋戦争を通じて活躍した艦のひとつといって過言はありません。
周りの一部の国が、一方的に海洋権益を主張しているこんな時代、何が起こるかわかりません。それは必ずしも望まないこともあるでしょう。そんな事態になったときに、自分の大切な何かを護るために自己を犠牲にした方々がいたことを忘れないようにしなければいけないと考えます。
利根も大破着低した呉軍港空襲では他の軍艦も大破着底、あるいは中破・小破と多くの被害を受けています。そして多くの慰霊碑があります。私が訪れているものだけでも軍艦「榛名・出雲」戦歿者留魂碑、軍艦大淀戦没者碑、「青葉」終焉之地碑とあります。他にもあると思いますので、探してみたいと思っています。気になった方、訪れてみてはいかがでしょうか?
参考にした書籍など
このページの公開日:2014.09.04