旧帝国海軍:軍艦利根資料館
2009年5月15日に江田島にある「軍艦利根資料館」に出かけました。利根は利根型重巡洋艦の1番艦です。本来、重巡には艦名として山の名が使われるのですが、利根は軽巡洋艦につけられる河川名となっています。これは計画時は軽巡洋艦だったためのもの。その後の設計変更により重巡となったのですが、名前はそのまま引き継がれました。
軍艦利根資料館
最初に利根の説明を少し・・・ 利根は昭和13年(1938年)11月20日に三菱長崎造船所で竣工しました。2連装4基8門の主砲をすべて艦首に配置し、艦尾に水上偵察機を多く搭載する独特のシルエットをしていました。また、その偵察能力と高速性から太平洋戦争時には機動艦隊と行動を共にしており、真珠湾攻撃時には空母艦載機による攻撃前に偵察を行なっています。ミッドウェイ海戦時には利根のカタパルト故障により偵察機の発進が遅れたことが大敗の一因となったと言われていることは、聞いたことがある人も少なくないのではないでしょうか。

こちらが軍艦利根資料館です。場所は能美海上ロッジの目の前なのですぐにわかるでしょう。ちなみに通常は施錠されており、見学するときには能美海上ロッジのフロントに鍵を借りることになります。なんともかわった(?)運営のされ方となっています。



こちらが資料館の内部。中央には利根の模型が、遺品として舷窓やコンパス、浴槽などいろいろなものがおかれていました。

こちらは軍艦利根戦歿者慰霊碑です。この慰霊碑の後ろが軍艦利根資料館になります。利根はミッドウェイ海戦後もさまざまな海戦に参加しそして活躍しましたが、昭和19年(1944年)10月のレイテ沖戦(比島沖海戦)後に日本へ帰艦。その後呉に回航され、昭和20年(1945年)2月に海軍兵学校練習艦となりました。
しかし昭和20年(1945年)3月19日の米空母艦載機による空襲により小破、その後この能美へ移動したものの7月24日および28日の空襲により大破し、着底してしまいました(これらの空襲を呉軍港空襲と呼びます。この空襲により、呉は軍港としての機能がなくなってしまいました)。この空襲による戦没者慰霊のためにこの碑がたてられました。

利根が大破、着底した水域です。
このページの公開日:2009.05.24