安芸の国から

安芸の国に暮らすおじさんのお出かけ記録です

旧帝国海軍:陸奥記念館、再び

8月30日、山口県周防大島にある軍艦利根資料館を再訪しました。はじめて訪れたのが2009年9月のことなので、5年ぶりの訪問です... って、前回アップした軍艦利根資料館と同じようなはじまりですね(^^;。

陸奥記念館 外観

陸奥記念館

8月25日付の読売新聞記事にあったのですが、この陸奥記念館、年々来場者が減少しているそうです。昨年の来場者は16,000人超でピーク時(1996年度)の5分の1になっているとか。館もテコ入れを考えており、今後展示品の入れ替えや企画展の開催を検討しているとのこと。期待したいですね。

さて、陸奥記念館です。年々来場者が減少しているとのことでしたが、8月最後の休みということも影響していたのでしょう、私が訪れた日は前回私が訪れたときよりも来場者が多かったです。といっても、下写真のように「どこに人がいるんだろう?」という程度ですが(^^;。

陸奥記念館 内部 概観

陸奥は長門型戦艦の2番艦として1918(大正7)年に起工され、1920(大正10)年5月31日に進水、1921(大正11)年10月24日に「完成」しました。長門型戦艦はジェットランド沖海戦(1916年)の教訓が取り入れられた戦艦で40cm(実際は41cm)砲を搭載、水平防御の強化も実施されており、当時において攻撃力・防御力ともに世界最強の戦艦でした。

そんな「陸奥」は誕生前に廃艦となる可能性がありました。第一次世界大戦が終了し、各国の国家予算を圧迫する軍事予算のが問題となってきました。そのため軍縮を検討する会議(ワシントン海軍軍縮会議)が開催されます。そのワシントン海軍軍縮会議において"建造中の"主力艦すべてを廃棄することが検討されていました。そのため、「陸奥」は公試も済んでいない、測距儀なども搭載されていない状態でしたが「完成」ということで海軍に引き渡されたのです。

しかし、アメリカ・イギリスは陸奥の完成を認めようとしません。それは当時40cm砲を搭載する艦は日本の「長門」以外にはアメリカに「メリーランド」1隻があるのみだったためです。結局、アメリカに2隻、イギリスに2隻の40cm砲搭載艦の建造を認めることで「陸奥」は生き残りました。その後日本の「長門」「陸奥」、アメリカの「メリーランド」「コロラド」「ウエストバージニア」、イギリスの「ネルソン」「ロドニー」の7隻の40cm砲搭載艦は世界最強の戦艦として「ビッグ・セブン」と呼ばれることになりました。

前回訪問時は展示物の写真を載せていなかったで少しだけですが紹介します。

陸奥記念館 陸奥の進水当事の姿

進水当時の「陸奥」です。「陸奥」はワシントン条約の破棄を通告した1934(昭和9)年から2年にわたる大改装が実施されました。

「陸奥」は「長門」とともに長い間帝国海軍を、日本を象徴する艦でした。たとえば下の写真。

陸奥記念館 昭和二年海軍大演習御召艦「陸奥」後甲板での記念撮影 中央に昭和天皇

昭和2年の海軍大演習御召艦となった「陸奥」で撮影された記念写真。即位したばかりの昭和天皇も写っています。

こちらは乗組員が揃った写真でしょうか? 「長門」ではこういった写真を見ることがありましたが、「陸奥」にもあったのですね。「陸奥」にとってこの頃までがよい時代だったのかもしれません。

陸奥記念館 陸奥乗組員の写真

「陸奥」は前述のように2年にわたる大改装後に太平洋戦争を迎えました。しかし太平洋戦争においては、戦前に考えられていた戦艦を主体とした砲戦ではなく、空母を中心とした機動艦隊の戦いに。そんな空母と行動を共にした戦艦は30ノットの速力を持った金剛型戦艦でした。

「陸奥」はミッドウェー海戦に1942(昭和17)年5月に他の戦艦と共に出撃しますが、空母4隻を失ったことで作戦は中止され、戦艦は戦うことなく帰投します。その後、8月にソロモン海域への出撃のために呉を出港しトラック島へ進出。しかし25ノットの速力しか持たない「陸奥」は前進部隊から分離されてしまい、出番がありません。「第二次ソロモン海戦」「南太平洋海戦」「第三次ソロモン海戦」に参加せず、1943(昭和18)年1月に本土に帰投しました。

話が少しそれますが、このときトラック島へは「大和」も進出していました。しかし、「大和」も出撃することはなく、ソロモン海域で繰り広げられた戦いに参加した戦艦は金剛型戦艦... 速力が劣っていたのは間違いありませんが、気持ちのどこかで「海軍を象徴する艦に何かあってはいけない」と、出し惜しみをしていたのではないかな... なんて感じもなきにしもあらず。

話を「陸奥」に戻して。1943(昭和18)年に本土に帰投した「陸奥」は横須賀にドック入りしたあとに柱島へ。そして6月8日に謎の爆沈。原因はいまだ謎であり、今後も真相は謎のままだと思われますが、前回訪問時に記したように私も人為的要因で発生したと思っています。

陸奥記念館 三好艦長が最期に身に着けていた制服

「陸奥」の三好艦長が最期に身に着けていたという制服です。このとき「陸奥」には乗員1321名と艦務実習のために153名の合計1474名のうち生存者はわずか353名。1000人以上が一瞬のうちに失われてしまいました。戦場で敵と戦っての轟沈ではなく、泊地で轟沈した「陸奥」... 無念であったろうと思います。

陸奥之碑

陸奥記念館をでて陸奥之碑を。

陸奥之碑

記念館を訪れていた方はいらっしゃいましたが、この碑を訪れている人はおらず... ちょっと残念。この写真には写っていないのですが(汗)、説明板がありますので下記します。

陸奥について

大東亜戦争の最中、この地西北方の海域に待機中突如として起こった大爆発音と共に、世界に誇る軍艦陸奥は幾多の輝かしい戦歴を残し、1121柱の将兵と共に原因不明のまま海底深く没し去った。時に昭和18年6月8日正午過ぎ星霜茲に20年地方志相図り、ありし日の陸奥を偲び併せて殉難将兵の慰霊のため浄財を仰ぎ碑を建立した。

昭和38年8月10日 東和町陸奥顕彰会

1 艦歴 起工 大正7年6月1日

  進水 大正9年5月31日

  竣工 大正10年11月22日

  本籍 佐世保鎮守府 昭和9年6月以降横須賀鎮守府

本艦はワシントン軍縮会議開催中に竣工、当時米国よりその廃棄を主張せられたが熱烈なる国民の支援により存置された当時世界中で40糎砲を装備した戦艦は陸奥・長門のみであった。昭和2年特別大演習には御統裁艦となり、同年秋観艦式は御召艦であった。昭和9年9月近代化大改装工事施工、昭和11年9月完成、昭和12年上海派遣陸軍部隊を揚子江沖輸送、大東亜戦争では連合艦隊に所属し、昭和16年12月ハワイ空襲部隊帰投掩護の為出撃後内海西部に待機して全作戦支援、

昭和17年6月ミッドウエー作戦支援

昭和18年2月内海西部に帰投、全作戦支援

昭和18年6月8日内海西部に於いて事故のため沈没

2 要目(改装後)

    

     排水量         39,130トン

      長           224,94米

      幅            34,60米

     馬 力           82,000

     速 力            25ノット

     兵 装 主砲 40糎砲       8門

         副砲           18門

         水上偵察機         3機

     兵 員           1,360名

私が最初に記したことがコンパクトにまとめられて記されていますね(^^(^^;。そして写真左に移っている感銘碑を記します。

感銘碑

祖国日本の海の守りとしてその名を世界に轟かした軍艦陸奥が、連合艦隊司令部付きととして柱島水道に警泊中、昭和十八年六月八日、不慮の爆沈により、海軍少将三好輝彦艦長以下一、一二一名の将兵が悲運にも艦と運命を共にし、悠久の大義に殉じられました。

爾来、地元東和町陸奥顕彰会の皆さまには、沖合約三粁先に艦と英霊の眠る海を眺望する、風光明媚な伊保田の丘に、陸奥之碑を建立され、毎年の命日には、懇な慰霊祭を催され、祖国の再建と英霊の冥福を祈り続けて下さいました。我等遺族と元乗組員が一体となり、陸奥会を組織、慰霊祭に参列し、そのたびに感涙に咽びました。

このたび軍艦陸奥五十年祭記念事業の一端として感銘碑を建て、地元の皆さまに感謝の誠を捧げ、御芳情を後世に伝えると共に、艦と英霊の御冥福を祈り、祖国の平和な弥栄と海と陸の安全を、冀うものであります。

平成七年六月八日

軍艦陸奥会

軍艦陸奥五十年祭実行委員会

太平洋戦争において活躍の場を得ることができなかった「陸奥」... これは「陸奥」に限らず大和型戦艦も同様ともいえますが、艦も乗組員も国や自身が護りたかった者のために一生懸命でした。そんな方々がいた時代があったことを忘れないようにしなければいけないのではないでしょうか。

参考にした書籍など

  • (2012年4月号)特集 長門&陸奥

このページの公開日:2014.09.10

コンテンツメモ

  • 訪問日:2014.08.30
  • 場所:山口県周防大島町
  • 行程:山陽道 - 国道437号
  • X-M1 + XC 16-50mm F3.5-5.6 OIS

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