海底に眠る軍艦 ─「大和」と「武蔵」─
大和ミュージアムで開催されている第27回企画展 “海底に眠る軍艦 ─「大和」と「武蔵」─" を観に出かけました。太平洋戦争で沈没、戦後に処分されて海底に沈んだ艦艇を取り上げている企画展です。
潜水調査により新たな発見が続いています
近年、潜水調査の技術が進歩したことにより、太平洋戦争で沈没した艦艇に関して多くの新しい発見が続いています。私が海底に眠る艦艇で真っ先に思い出すのは2013年にハワイ沖で発見された “伊400" ですが、この企画展で大きく取り上げられているのは “大和" と “武蔵" です。
大きく取り上げられている “武蔵" は、1944(昭和19)年にフィリピン沖海戦で沈没しました。正確な沈没場所はわかっていなかったのですが、2015(平成27)年と2017(平成29)年にマイクロソフト社の共同創業者ポール・アレン氏が率いるチームがシブヤン海で潜水調査を実施しました。
その調査により沈没場所を特定し、武蔵を撮影した報道を観たのを覚えている方も多いでしょう。この企画展ではそのときの調査映像を使った資料が展示されていました。撮影禁止のものが多かったので、ここでは紹介できませんが… ぜひ観に出かけてください。
「大和」引揚げ品を初公開
この企画展の目玉はなんといっても “大和" の引揚げ品。2016(平成28)年に海底から引き揚げられ、同年に寄贈されたものです。
1945(昭和20)年3月、米軍の慶良間諸島上陸により天号作戦(天一号作戦)が発動されます。天一号作戦は航空機(による特攻)が中心の作戦ですが、"大和" を中心とする第一遊撃部隊(第二艦隊+第二水雷戦隊)の出撃も決まります。
4月5日の連合艦隊司令部から第二艦隊司令長官の伊藤整一中将への命令は次のようなものです。
第一遊撃部隊は海上特攻隊として八日黎明沖縄島に突入を目途し、急きょ出撃準備を完成すべし
完全に"特攻"です。
もちろんこんな作戦とはいえない作戦を批判する者もいましたが、海軍の名誉のために出撃が決まったということでしょう。4月6日に出された連合艦隊豊田長官からの訓示電です。
帝國海軍部隊は陸軍と協力、空海陸の全力を擧げて沖縄島周辺の敵艦隊に對する總攻撃を決行せんとす
皇國の興廢は正に此の一擧に在り、茲に殊に海上特攻隊を編成壮烈無比の突入作戦を命じたるは帝國海軍力を此の一戰に結集し光輝ある帝國海軍海上部隊の傳統を發揚すると共に其の榮光を後昆に傳へんとするに外ならず
各隊は其の特攻隊たると否とを問はず愈々殊死奮戰敵艦隊を随所に殲滅し以て皇國無窮の礎を確立すべし
連合艦隊長官からの訓示がこれですから…
しかし “大和" は沖縄に辿り着くことはできませんでした。7月4日の坊ノ岬沖海戦で沈没。第二艦隊司令長官伊藤整一中将、大和艦長有賀幸作大佐をはじめ大和の戦死者2740名がこの海に散りました。
展示されていた探照灯架台や測距儀、計器盤、他の引揚げ品を観ているとあらためて感じることができます。それは、これを大和で使っていた方がいて、そして使っていた多くの方はこの展示物とともに海に沈んだという事実。
こういった引揚げ品がモノとしての価値だけでなく、その背景にあるものを考えるきっかけとなればいいなと思います。
おまけ? 呂500(呂号第五百潜水艦)
この企画展で私が「おおぉ」と感じたのがこちら。呂500に関する展示です。
呂500はもともとはU-511… そう、ドイツのUボートでした。太平洋戦争中に行われたドイツとの技術交流の一環で日本にやってきたUボートです。1943(昭和18)年に呉鎮守府に呂号第五百潜水艦として配備されました。
終戦後、米軍により若狭湾に海没処分されましたが、昨年浦環氏率いるラ・プロンジェ深海工学会による潜水調査で水深約90mに沈んでいるのを発見されました。ラ・プロンジェ深海工学会による潜水調査というと、"伊58呂50特定プロジェクト"で見つかった海底に突き刺さった潜水艦(ちなみに突き刺さっていたのは伊47でした)の映像が衝撃的でした。覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
今後もラ・プロンジェ深海工学会による潜水調査には期待ですね。
参考文献など
- 丸(2014年4月号)特攻「大和」艦隊
- JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C08030103100、昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(防衛省防衛研究所) 15ページ目
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