軍艦利根戦没者慰霊碑と軍艦利根戦死者之墓
8月1日は江田島へ。4連休後の梅雨が明けて天気の良いお休み… 広島市外に出かけてもいいだろうと考えてどこに出かけようと思案… “やはり夏は海だろう"ということで江田島です。一般的な"海"と違うことは認識しています(笑)。
軍艦利根戦没者慰霊碑
これまで"安芸の国から"では軍艦利根資料館については展示品など2回記していますが、慰霊碑についてはあまり触れていなかったので、このページでは慰霊碑と戦死者之墓を紹介したいと思います。
毎年利根が米軍の攻撃により着底した7月28日近くにこの場所で慰霊祭が執り行われています。今年は先月27日に第75回忌軍艦利根戦没者慰霊祭が執り行われました。COVID-19感染拡大予防の点から数名での開催となったそうです。
碑の裏側に碑文があります。上写真の資料館壁面に白い四角があるのがわかるでしょうか。碑に記している文はその場所ゆえに直接は読みづらいため、碑文が"白い四角"のところに書かれています。紹介させていただきます。
ハワイ海戦以来の戦歴を誇る一等巡洋艦利根はレイテの戦に傷ついた艦体を修理した後 昭和二十年二月海軍兵学校練習艦として江田島湾に姿を現わし 五月には此処から二百米沖合いに投錨して全艦を樹の枝で偽装しました しかし米艦載機が能登呂山の頂から急降下してきた七月二十四日から前後三回に亘る爆撃により 応戦奮闘の甲斐なく大破し 七月二十八日の夕闇が迫る頃軍艦旗を掲げたまま艫の方から沈んで行きました
利根が此の沖に停泊してから空襲を受ける迄の期間・・ それは僅か二ヶ月余の間でしたが 一千四百余名の乗組員は民家に宿泊し 或はクラブを置いて島民の世話を受け家族のような交わりをしました その心の繋がりのある人達が 海を血に染めて傷つき倒れ 一方島内に落ちた爆弾のため無辜の住民の中から悲惨な犠牲者が出る様を眼のあたりにして 島民は悲痛哀悼の念に堪えず何とかして慰霊の方法を講じたいと願う気持ちが実を結んで遂に二十周年を迎えた今日碑の完成を見たのであります 利根の戦没者百二十八柱と島民の犠牲者十七柱の御霊が永久に安らかに眠られますよう祈って止みません
昭和四十年七月二十五日 能美町長 相野田敏之
8月になったこともあり、そばの長瀬海水浴場には多くの方々がいらっしゃっていました。ホテル建設工事中のため狭い道路を通らなければいけない駐車場へ誘導するためでしょう、地元らしきご年配の方が数人トランシーバーでやりとりをされていました。
碑文を読んだりしていると、その方から"(資料館も)開いているよ"と教えていただいたりして。利根がこの場所に投錨し大破着底してから75年経ちますが、今でも地元の方に慕われているんだろうなって。
軍艦利根戦死者之墓
2014年に軍艦利根資料館を訪れたときに次のように記していました。
利根の解体作業中に遺骨が拾い集められて能美町中町の中町軍人墓地の一角に供養されたそうです。
旧帝国海軍:軍艦利根資料館、再び
今回はこのお墓も訪れました。国道487号沿い、江田島市立能美図書館の対面にある中町軍人墓地にそのお墓"軍艦利根戦死者之墓"はあります。
この墓地には忠魂碑や戦争で亡くなられた軍人の方々のお墓があります。そのひとつが “軍艦利根戦死者之墓" です。
墓碑の側面に碑文が書かれています(一部スペースなど追加)。
軍艦利根は昭和二十年七月二十八日米艦載機と激闘の末大破着底 艦と運命を共にせる戦友の遺骨が戦後付近の海中より発見され 島民の好意により本墓地に埋葬供養を受けしが此度生存者有志相計い残存遺骨をも探査拾集し 墓標を本碑に改建英霊百二十八柱の鎮魂と冥福を祈念す
ビールが供えられています。これだけ暑いを飲みたくなるよなぁ~と軽いことを思いつつ、もう戦争を続けることに意味がなくなっていた1945(昭和20)年7月末に亡くなった方々がいるという事実をとても重く感じます。そういった点からも、原子爆弾を落とされるまで終戦を決めることができなかった政治家や軍上層部の責任は、戦争をはじめたことよりも大きい。
今年は太平洋戦争が終わって75周年というひとつの節目です。先の戦争で亡くなった方々のためにも、これからの日本をどうするのかそれぞれの者が改めて考え、議論する必要があるのではないでしょうか。
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