詫間海軍航空隊跡(香川県三豊市)
6月24日、25日に丸亀に出かけたときの話です。24日、四国上陸後に麺太郎さんでうどん(ちなみにひやししっぽくうどん(^-^))を頂いたあと、今回の旅行で最初に訪れたのは丸亀市の先にある三豊市の詫間海軍航空隊跡です。
詫間海軍航空隊
詫間海軍航空隊は1923(昭和18)年に水上機の訓練部隊として設置されました。しかし戦況の変化から横浜海軍航空隊に所属していた飛行艇すべてが詫間空に移され、詫間空は訓練部隊ではなく実戦部隊に。そして1925(昭和20)年には第五航空艦隊の実戦部隊詫間海軍航空隊を編成しました。
二式大艇はその能力をいかし、夜間索敵、攻撃部隊の誘導の任を果たします。また、水上偵察機では特攻隊"神風特別攻撃隊琴平水心隊"が編成されました。ともに終戦まで苛烈な戦いを行い、多くの者(≒若者)が命を落としました。
碑文を記します。
詫間海軍航空隊の建設は昭和十六年十一月に発表された。香田・和田内地域の突然の土地買収は住民にとって死活問題であった。また新浜に呉海軍軍需部詫間補給所が建設され、三地区で合計百三十六戸(買収面積約三十七町歩)が立ち退くことになった。移転にともなう労苦は筆舌に尽くし難いものであった。建設工事は呉海軍施設部が担当し、地元の勤労奉仕隊員を加えて官民一体で行われた。詫間空は昭和十八年六月一日に開隊され、水上機の実用機教育を担当した。主要配備機は九四式水上偵察機、二式飛行艇等であり、各地から二千余名の兵員が着任し、連日猛訓練が展開された。昭和十九年九月、横浜海軍航空隊は沖縄攻防戦に備えて主力を詫間に移すことになった。この時点で、ここ詫間は大型飛行艇隊を擁する水上機の一大作戦基地になった。昭和二十年四月二十五日、第五航空艦隊は決戦態勢を整えるために、全飛行艇部隊を統合して実戦部隊詫間海軍航空隊を編成した。詫間空配備の二式飛行艇は高速性能のうえ大型レーダーを装備しており、米軍戦闘機と死闘を繰り返しながら、終戦の日まで第五航空艦隊の目となって活躍した。銀河爆撃機で米軍機動部隊をウルシー泊地に強襲した第二次及び第三次丹作戦では、長駆進撃路の天候偵察や特攻機隊の誘導で活躍した。これら作戦で二式飛行艇二十七機と二百五十名の精鋭を失った。昭和二十年二月十六日、全小型機による特攻訓練の実施が発令された。詫間空では、水上偵察機による神風特別攻撃隊琴平水心隊を編成した。同時期、茨城県北浦・鹿島両海軍航空隊で編成された神風特別攻撃隊魁隊が詫間空に進出、両隊は猛訓練の後、鹿児島県指宿を前線基地として沖縄周辺の艦船に体当たり攻撃を敢行した。指宿では先行した整備員が発動機調整・燃料補給・爆弾装着等の整備に心血を注いだ上、断腸の思いで出撃を見送ったという。四月二十八日以降四次にわたる出撃で二十五機が米軍艦船に突入し五十七名の若者が沖縄の空に散華した。これら詫間空の戦闘を強力に支援したのは、第十一海軍航空廠詫間工場である。昭和十九年十月から詫間補給所の施設を利用して修理工場を建設し、基幹技術者に徴用工員・増川女子挺身隊員・女子年少工・観音寺商業と善通寺高女の動員学徒等を加えた約八百名の陣容で、各種飛行機の修理に精根を尽くした。被弾破損した飛行機を一刻も早く飛ばそうと、必死の思いで業務に邁進した若い力が、二式飛行艇を決戦の空へ飛ばし続けたのである。戦後五十有余年、詫間海軍航空隊跡地は国立電波高専と民間工場等に、十一空廠跡地は詫間中学校に転用され、わずかに水際四箇所のスベリと横穴式防空壕を残すのみとなっている。我が国今日の繁栄は祖国の防衛に殉じた将兵や多くの人々の犠牲に負うことを銘記し、再び戦争の惨禍が起こることのないよう、恒久の平和を念願して、詫間海軍航空隊跡を詫間町の史跡に指定する。
平成十二年(西暦二千年)十一月
詫間町教育委員会
航空隊跡を示すもの
航空隊施設があった場所は現在学校や企業となっており、当時の施設はほとんど残っていないようです。そんな中、残っているのは防空壕跡と飛行艇のスリップ(滑走台)。
防空壕跡は碑の陸側にあります。
スリップ(滑走台)はもちろん海側に。
飛行艇を滑走させるために斜面になっているのがわかります。上の方の写真にある構造物は戦後につけられたもののようです。また、上のほうの写真をみると、奥の方にも同様のスリップがあるのがわかるでしょうか? スリップ(滑走台)は大艇用のものが3つ(幅35m、傾斜4.5度)、水偵用のものが1つ(幅135m、傾斜4.5度)ありました。
この詫間海軍航空隊についてはその名前は知っていたのですが、これほど大きな部隊だったとは考えていませんでした。そしてこのページを作成するためにアジ歴の資料を読んで思ったのは二式大艇の活躍とその優秀さ。この技術がUS-2に引き継がれていると考えると凄い。
戦争は"しない"というのが原則的には第一選択肢でしょう。ただ、相手があることなので必ずしも希望するようになるとは限りません。戦争をしないためには相手に"戦争することは割に合わない"と考えさせることが一番だと思っています。そう考えさせるためには"さまざまな力"を持つことが必要。
これから先の日本で太平洋戦争のようなことがないように。
参考にした書籍など
- 「昭和20年8月31日 施設目録 詫間海軍航空隊」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011082700、航空隊 引渡目録 9/14 (防衛省防衛研究所)
- JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13120461700、詫間海軍航空隊戦闘詳報 自昭和20年4月25日至昭和20年5月31日(防衛省防衛研究所)
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