船舶砲兵部隊慰霊碑
比治山の陸軍墓地にある船舶砲兵部隊慰霊碑を紹介します。先日比治山に出かけたときのことですが、陸軍墓地の様子が変わっていました。気になって調べていたところ、船舶砲兵部隊慰霊碑の記事を見つけたのです。
船舶砲兵とは
陸軍には輸送用舟艇、および、その行動を直接に援護するための戦闘用舟艇を開発し、そして運用する船舶兵という兵種がありました。うち、民間からの徴用して輸送船として使っていた船舶に設置した武装を運用するのが船舶砲兵です。
司令部が宇品に置かれていたこともあり、広島にゆかりのある部隊です。
船舶砲兵の歴史
船舶砲兵の歴史です。
- 支那事変中の1928(昭和13)年7月、陸軍に船舶砲兵隊がはじめて編成
- 1941(昭和16)年8月に船舶高射砲連隊、同年10月に同第二連隊追加動員
- 1942(昭和17)年7月船舶司令部創設にあわせて船舶砲兵連隊に
船舶砲兵部隊慰霊碑
船舶砲兵部隊慰霊碑は陸軍墓地のもっとも南側にあります。
碑文を記します。
今茲に當時を偲び亡き戦友船員の忠誠に敬意を捧げ不滅の勲功を讃えると共に墓標なき千尋の海に名も知らぬ山河のほとりに眠るみたまの安らぎを祈り之を建立せり
昭和五十二年十一月六日
船舶砲兵部隊慰霊碑建立会
銘板には船員、船舶砲兵、乗船将兵だけでなく、 “対馬丸乗船 沖縄疎開学童之霊 七四二余柱" とあります。見つけた記事というのは、この船舶砲兵部隊慰霊碑と対馬丸の記事でした。
対馬丸
“対馬丸”… その船の名を聞いたことがある人は少なくないでしょう。”対馬丸”は日本郵船から徴用した貨物船で多くの輸送任務を行っていました。1944(昭和19)年、連合軍の沖縄侵攻が必至の状況となると、政府は沖縄の老人、女性および学童を本土や台湾に疎開させることを命令します。
対馬丸はその疎開命令により1944(昭和19)年8月21日に国民学校の生徒・教師・付添人ら1,661人を乗せて那覇港を出港し長崎へ向かいましたが、翌22日夜に米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃により沈没。乗船していた学童767人、乗組員24人を含む1,484人が犠牲となり、救助されたのは学童59人を含むわずか177人という出来事でした(人数に関しては諸説あります)。
船を護る船舶砲兵として学童たちを護ることができなかった… 生き残って終戦を迎えた船舶砲兵の方々はとても無念に感じていらっしゃったに違いありません。
太平洋戦争全体では、軍艦はもちろん、民間から徴用した八〇〇万総トンの日本商船、そして六万人余りの船員たちが亡くなりました。
戦争を遂行するために必要な資源は海上輸送、戦地も海の向こうにも関わらず、海上護衛が機能しなかった… そもそも護衛することをまじめに考えていたのか… もっとも、考えていたとしても輸送船団をまともに護衛するための艦船も工業力もなかったのが太平洋戦争。
日本のために志半ばで散っていった方々が、安らかに眠っていただくように。日本は有事はもちろんですが、平時であっても海上輸送路を確保しておかなければ何もできないということを忘れないようにしないといけません。
参考にした書籍など
おまけ:比治山公園「平和の丘」構想
最初に “陸軍墓地の様子が変わっていました" と記しましたが、それはこんな感じ。
礼拝堂がなくなっていました。写真右の看板に次の説明がありました。
今年度礼拝堂を解体し、来年度陸軍墓地入口部分の改修工事を予定しています。
看板に日時がなかったので、今年度・来年度とはいつをさすのだろうと調べてみると、広島市では被爆70周年の平成27年7月に「比治山公園『平和の丘』構想」を策定し、再整備をすすめているらしい。
再整備の状況はイマイチわからなかったのですが、陸軍墓地の奥からは宇品港方面を望むことができる(旧広島陸軍被服支廠なども見えます)のですが、季節によって木々の状況でよく見えなくなるのでそのあたりを整備して欲しいな。
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