呉の眼鏡橋
呉は"眼鏡橋(めがね橋)"と名のついた交差点があります。呉本通りを旧下士官兵集会所へ向かったときにJR呉線と交差するところです。しかし、"眼鏡橋"の名前から想像する橋を見つけることはできません。このページではその"眼鏡橋"について記します。
眼鏡橋は地下に
今回"眼鏡橋"のことを記そうと思った理由は、旧下士官兵集会所にあった"この世界の片隅に"の場面を切り取ったこの掲示。
埋め立てられてしまって見ることができなくなったことは知っていたのですが、こうやって取り上げられているのであれば少し調べてみようと。暇なおじさんです(笑)。掲示には"暗渠となり"とあります。暗渠なので見ることができないのですが、開渠から暗渠になるところがこの先。
眼鏡橋の歴史
竣工とその姿
眼鏡橋は呉鎮守府の開庁にあわせて造られた呉の街と海軍をつなぐ橋です。鎮守府設立書の土木工事概要を追っていくと、明治20(1887)年8月1日に架設工場を囲むための竹矢来に着手、9月10日に地質調査… その後工事が続き、明治21(1888)年3月31日に橋の架設、全ての袖石垣と堰堤工事が竣工しました。
絵葉書の右側が呉市の街、左側に呉鎮守府第一門があります。こんな絵葉書も。
呉市の街側から海軍第一門方向のものです。第一門左に見える建物は下士官兵集会所(この頃は下士官卒集会所かも)。現在残っている建物とは形が異なっているのがわかります。
埋められていきます
呉鎮守府開庁後にはじまった戦争のため、下士官兵集会所は手狭になり改築が繰り返されます。しかし、改築だけでは足りなくなり、埋め立てを行って敷地を増やすことになりました。"境橋" とあるのが “眼鏡橋" のことです。
また、当時は海田市〜呉間まで鉄道が営業していましたが、呉〜広間が延伸されることに伴い、やはり埋立が行われています。順番としてはこちらのほうが先に行われたのかな。
こういった時代の流れにより眼鏡橋は当初の形からかわっていき、最後はその姿を全く見ることができなくなりました。1947(昭和22)年に米軍が撮影した空中写真をみると最初の絵葉書の橋の面影すらありません。
現在はまったくその姿を観ることができない眼鏡橋ですが、開渠部分から中に入っていくと、その姿の一部分を観ることができるようです。暗いところ、狭いところが苦手な私は絶対に見ることはできないでしょう(苦笑)。
参考文献など
- JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C11081298800、呉、佐世保両鎮守府設立書 1 明治19年乃至22年(防衛省防衛研究所)
- JACAR(アジア歴史資料センター) )Ref.C11081303300、呉、佐世保両鎮守府設立書 2 明治19年乃至22年(防衛省防衛研究所).
- JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C05021363800、公文備考 昭和5年 K 土木建築 巻8(防衛省防衛研究所)
- JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C05034522000、公文備考 昭和10年 K 土木建築 巻6(防衛省防衛研究所)
- 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
- 広島県立文書館
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