乗組員が見た「伊勢」・「日向」

少し前のことになりますが、入船山記念館で開催されている企画展"乗組員が見た「伊勢」・「日向」"を観ました。来年8月まで開催されているこの企画展、より多くの方に知ってもらって観に行かれる方が増えるといいなと思います。

乗組員が見た「伊勢」・「日向」
乗組員が見た「伊勢」・「日向」

「伊勢」型戦艦

“伊勢"は「伊勢型」戦艦の1番艦、"日向"は伊勢型戦艦の2番艦として、それぞれ1917(大正6)年12月、1918(大正7)年4月に竣工しました。36センチ砲を6基12門持つ超弩級戦艦です。もともとは「扶桑」型戦艦の3番艦、4番艦として計画されていましたが、"扶桑"の建造中にわかった問題、他国海軍の進化に対応するために改良を行い、新しい「伊勢」型戦艦として誕生しました。

乗組員が見た「伊勢」・「日向」
乗組員が見た「伊勢」・「日向」

就役後に何度か改装が実施されていますが、いわゆる近代化改装が行われたのが呉工廠でした。"伊勢"は1935(昭和10)年8月、"日向"は1934(昭和9)年11月に着手され、それぞれ1937(昭和12)年5月、1936(昭和11)年9月に完成。その後、機銃射撃指揮装置や応急注排水装置などを設置して太平洋戦争を迎えました。

乗組員が見た「伊勢」・「日向」
乗組員が見た「伊勢」・「日向」

しかし真珠湾攻撃は空母6隻を中核とした攻撃で戦艦は活躍する機会はありません。その後、MI作戦、AL作戦に参加しましたが、ミッドウェー海戦で空母4隻を失い作戦は中止。虎の子といえる空母を失った日本海軍は戦艦を空母に改造することを考え、"伊勢"と"日向"に白羽の矢が立つ… というと表現がよくないかもしれませんが、選ばれました。

乗組員が見た「伊勢」・「日向」
乗組員が見た「伊勢」・「日向」

“伊勢"と"日向"の空母化、長期の工期と多くの工数がかかる完全空母化ではなく、艦の後部に航空機を運用するための格納庫や飛行甲板を持つ"航空戦艦"へ改装されることに決まります。"伊勢"は1943(昭和18)年2月から同年8月に呉工廠で、"日向"は1943(昭和18)年5月から同年11月まで佐世保工廠で行われました。

航空戦艦として生まれ変わった"伊勢"と"日向"ですが、"伊勢"の初任務は輸送任務でした。"丁三号輸送"任務で陸軍兵士と物資を輸送し、呉に帰還しています。

乗組員が見た「伊勢」・「日向」
乗組員が見た「伊勢」・「日向」

その後も航空戦力を持つことがない"伊勢"、"日向"でしたが、小沢中将率いる第一機動部隊(いわゆる囮部隊)としてレイテ沖海戦に出撃します。航空戦力はないものの、大量に増設されていた対空火器で空母を護る防空力が期待されていました。

第一機動部隊は発生したエンガノ岬沖海戦によりすべての空母を失います。しかし、"伊勢"と"日向"は自身の持つ防空力と艦長の操艦技術により生き残り、他の生き残った艦とともに呉へ帰還しました。

ところでこのページを作成するにあたって調べていてはじめて知ったのですが、いうところの対空ロケット砲(12糎28連装噴進砲)も装備されていたのですね。エンガノ岬沖海戦では"伊勢"が366発、"日向"が259発使用した記録があるそうです。

その後"伊勢"と"日向"はマニラへ武器・弾薬を輸送します。制空権をもたない海域で足の遅い輸送船を使っても成功の見込みはありませんが、戦艦であればその速度も防御力もケタ違い。結果、無事にその荷を運びました。

この輸送任務のあと、戦略物資を日本に輸送する北号作戦に参加します。1945(昭和20)年2月に出港し、幾度の危機を脱して呉に戻り任務を果たしました。

乗組員が見た「伊勢」・「日向」
乗組員が見た「伊勢」・「日向」

呉に戻ることができましたが、2艦ともに予備艦に指定されます。そして1945(昭和20)年7月の呉軍港空襲で大破着底してその生涯を閉じました。

上写真で"くろがね館"とありますが、これは戦後解体された"伊勢"で生活する家族を報じたものです。NHKの戦争証言アーカイブス 日本ニュース 戦後編 第97号に"軍艦住宅 呉<時の話題>"にもありますので、興味を持たれた方、観てください。ちなみに住み込んだのは"西原正三"さんだそうです(^-^)。

展示物については写真は載せましたが、あえて触れませんでした。展示物は艦内での生活や艦内でつくられていた新聞などです。当時の艦内のことを見聞きする機会ってそれほど多くないと思います。企画展は来年8月まで開催されています。ぜひ訪れて自身の目で観てください。

参考にした書籍など

  • 丸 2021年5月号 特集 36センチ砲最強戦艦 「伊勢」型戦艦