己斐調整場送水ポンプ室(広島市西区)
旧陸軍被服支廠の保存・解体の話が1月20日に召集された2020年通常国会の国会質問ででてくるようなことになっています。時をおかず広島県は来年度から行う予定だった解体への事業着手を見送ることを発表。今後引き続き議論が行われるようです。どうなるのかな… 未来の方々のためにどうするのがいいのかな…
さて、被爆建物繋がり… ということで(?)、このページでは己斐調整場送水ポンプ室(己斐調整場旧送水ポンプ室)を紹介します。
広島市の水道事業
広島市の水道は軍用水道の工事と同時に行われ1898(明治31)年8月に完成しました。広島市の水道は、全国で5番目の近代水道です。これほど早く水道が創設したのは1894(明治27)年に日清戦争が勃発し、広島に大本営が設置されたことが大きな理由。具体的には大本営が設置されたことで軍事および政治の中心となり、軍人をはじめ多くの人々が集まって水道の必要性が高まったためです。
1904(明治37)年に日露戦争が勃発し人口が急増、また広島市が発展するのにあわせて人口はさらに増えていきます。それに伴い数回拡張事業が行われました。平成30年には120周年を迎えた広島市の水道事業です。
己斐調整場
己斐や草津は牛田浄水場から距離があるために送水されてくる上水の水圧が落ちています。そのため、水圧を得るために一度高いところにあげる調整場がこの場所に作られました。1932(昭和7)年3月に竣工しています。調整場に上水を汲み上げるためのポンプ室がこのページで紹介している “己斐調整場送水ポンプ室" です。
原爆投下によりこの送水ポンプ室も被害を受けましたが、建物は1949(昭和24)年に修復されました。
このポンプ室と対となる調整池は上にあるのですが、道から見ることはできません。広島県文書館の絵葉書で紹介します。UFO(見たことありませんが)のような不思議な、なんともコミカルな姿です。
現在は稼働せず
この己斐調整場は現在稼働していません。現在は同じ敷地内にある “己斐配水池" が広島市内西部地域へ給水しています。"己斐配水池" には牛田浄水場ではなく、緑井浄水場から送水されています。
最初に記したようにこの己斐調整場送水ポンプ室も被爆建物です。個人的には “被爆建物だから" といって特別視するつもりはないのですが(被服支廠も"規模の大きな被爆建物"よりも"規模の大きな戦争遺構"なので気になります)、こういった昭和初期につくられた特徴ある建物はもっと意識されてもいいのではないかと思います。
ちなみにこの己斐調整場送水ポンプ室のある場所、ノートルダム清心中・高等学校そばにあります。もし興味を持って訪れる方がいたらお気をつけください。こんなご時世なので、スマホでもカメラでも持ってウロウロしていたら通報されるかもしれませんヨ?
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