亀山発電所(広島市安佐北区)
旧亀山発電所(現太田川漁業協同組合事務所)を観に出かけました。以前よりその存在は知っていたのですが(思っていた場所と違っていましたが(苦笑))、広島市が進めている県道拡張のために取り壊しが検討されているとのことで、今のうちに観ておこうと。
亀山発電所について
亀山発電所は広島電燈株式会社(現中国電力となる会社のひとつ。以下広島電燈)が1912(明治45)年に建設し、1973(昭和48)年まで稼働していました。稼働停止後は太田川漁業協同組合が事務所として使っています。
過去に水力発電所が気になると記した私… せっかくなので、もう少し調べてみました。
1912(明治45)年に送電開始
太田川の水利権は1906(明治39)年11月に別の会社が取得していましたが、株式公募がうまくいかずにその会社は解散。広島電燈がその水利権の譲渡を受け、1910(明治43)年10月に水力発電所の工事に着手します。翌年10月に竣工予定だったものの、天災などにより約8か月遅れの1912(明治)年6月23日に竣工。亀山発電所として翌月7月8日に送電を開始しました。
3基のフランシス水車、3基のウエスチングハウス社製発電機を持つ亀山発電所の発電量は2100キロワット。 この2100キロワットという発電量は当時においてかなりのもので、広島電燈はそれまで稼働していたすべての火力機関を停止して予備に充て、水力発電による送電のみに変更しました。
これに合わせて電動力の供給も開始、また料金を値下げして需要を喚起します。その後、呉市においても一部営業を開始し、呉鎮守府関係部署に電燈電力を供給するまでになりました。
1973(昭和48)年に操業停止
発電所建屋の上をみると、上部水槽も残っているようです。上部水槽には水車への水の流量を調整したり、 スクリーンが設けたりして水車に異物が流入しないようにする役割があります。
その上部水槽までどのように導水されていたかというのが下の航空写真(撮影は1962(昭和37)年)。上部水槽までの導水路は以下のようになっていました。
太田川の上流に堰と水門、導水路を造って必要な水を導水しています。導水路の長さは2.83kmありました。それにしてもほぼ太田川に沿った導水路… わざわざあんな上流に水門をつくる理由はなんだったんだろうなと感じたりもします。
稼働後は1919(大正8)年の太田川大洪水をはじめ、何度となく洪水被害にあいました。そのたびに復旧して稼働を続けてきましたが、1972(昭和47)年の洪水被害をきっかけに施設が老朽化していた亀山発電所は翌年稼働を停止し、50年以上続いた歴史に終止符を打ちました。
取り壊しの日時は決まっていない
最初に県道拡張のために取り壊しが検討されていると記しましたが、所有する太田川漁協と調整がすすんでいないようで具体的なスケジュールは決まっていません。
私的には広島の発展の歴史を伝える建物のひとつでもあり、取り壊すのは残念に感じます。半面、安佐市民病院が移転してくる場所を思うと、県道拡張は必須のように感じます。落しどころは難しいですが、人の命のことを考えると後者を優先したほうがいいのかなぁ。
参考にした書籍など
- 国立国会図書館デジタルコレクション 広島電気沿革史 : 広島電気沿革史姉妹篇感想録共 / 広島電気株式会社 編
- 公益財団法人広島市文化財団 亀山公民館 旧亀山発電所
- 広島県立文書館
- 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
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