回天特別攻撃隊隊員 和田稔記念碑(山口県上関町)
5月18日、光海軍工廠跡を訪れたあとに向かったのは山口県上関町。上関町を訪れるのは、2016年に河津桜を観にやってきた以来でしょうか。でも今回の目的は違います。この日の目的は回天搭乗員和田稔さんの記念碑を訪れること。
回天の碑をみて訪れることに
前回更新した光海軍工廠跡のページの回天の碑のところで"この回天の碑を訪れて、このあと訪れるところを決めました。"と記しました。そう、回天の碑にある"和田稔"の名前をみて久しぶりに上関の記念碑を訪れることを決めたのです。
13年ぶりの訪問
この和田稔記念碑を訪れるのは2度目になります。はじめて訪れたのは2011年のこと。和田稔さんの妹、若菜さんも出席された碑の除幕式からまだ間もない頃のことでした。
この上関町白井田に和田稔さんの碑が建立された理由、それは終戦間際の昭和20年7月に回天訓練中に行方不明となった和田稔さんが終戦後9月の台風でこの地に回天ごと漂着したからです。
そういったことを知らない向きが多いのでしょう… というか、この碑を目的でやってくる人でなければ知らないでしょう(^^;。碑の近くに2011年に訪れたときにはなかった(はず)"回天記念碑設置の経緯"が設置されていました。
“回天記念碑設置の経緯"の文章(本文のみ)です。
太平洋戦争終戦直前の一九四五年七月、特攻兵器回天の搭乗員和田稔少尉(東京帝国大学在学中・当時二十三歳)が光基地から発進し行方不明となりましたが、同年九月の枕崎台風により白井田の高瀬の岩礁に漂着しました。
学徒出陣の前に記した「私の棺の前に唱えられるものは、私の青春の挽歌ではなく、私の青春の頌歌(讃歌)であってほしい」という一節など、多くの貴重な手記を残しています。
こうした事実から優れたドキュメンタリーテレビ番組が制作されたり、二〇〇六年には原作横山秀夫の「出口のない海」が監督・佐々部清、脚本・山田洋次、出演・市川海老蔵で映画化されました。
上関在住の原田博之氏は、和田稔氏の末の妹である西原若菜さん(千葉県在住)を一九八一年漂着現場に案内して以来、三十年間親交があり、記念碑を作りたいという思いを長く胸に秘めてきました。その熱く誠実な心に賛同した有志で二〇一〇年の発起人会を発足し、上関町や白井田地区の協力を得て、記念碑設置の夢が叶いました。
この記念碑で、戦争の実態を振り返り、戦争の無念さと平和の尊さを後世に受け継いで欲しいと願っています。
二〇一一年八月二十八日
和田稔さんのこと
和田稔さんのことを少し記したいと思います。2011年のページと一部重複しますが、知らない方のために。最初に略年譜を。
- 1922 (大正11)
- 1月13日:愛媛県生まれ
- 1942 (昭和17)
- 9月:第一高等学校卒業
10月:東京帝国大学法学部入学 - 1943 (昭和18)
- 12月:二等水兵として大竹海兵団入団
- 1944 (昭和19)
- 1月:武山海兵団へ移動
2月:予備学生になり、首席学生として学生長に
7月:航海学校入学
10月:川棚魚雷艇訓練所へ
11月:回天特別攻撃隊光基地へ
12月:少尉任官 - 1945 (昭和20)
- 5月:轟隊として伊号363潜水艦で出撃
6月:発進の機会を得ず帰投
7月:訓練中に行方不明となり殉職
一高から東京帝国大学というエリートコース。しかし当時の戦況から予備学生、軍人へ。自ら望んで軍人になったわけではなく、自分ではどうすることもできない大きな流れの中で軍人になる・・・
和田稔さんがずっと記していた日記が"わだつみのこえ 消えることなく"として書籍になっています。当時の高等教育(それもトップレベルの)を受けていた「自ら考えることを知ってる」和田稔さんが自分の置かれている環境と折り合いをつけるために考え何か答えを見つけようとしていたことを感じます。あるいは日記を記すことで折り合いをつけようとしていたのかもしれません。
“わだつみのこえ 消えることなく"から"回天記念碑設置の経緯"でも記されている文を引用します。
若菜。私は今、私の青春の真昼前を私の国に捧げる。私の望んだ花は、ついに地上に咲くことがなかった。とはいえ、私は、私の根底からの叫喚によって、きっと一つのより透明な、より美しい大華を、大空に咲きこぼれさすことが出来るだろう。
“わだつみのこえ 消えることなく" 和田稔 より引用
私の棺の前に唱えられるものは、私の青春の挽歌ではなく、私の青春への頌歌であってほしい。
この引用部分は1943(昭和18)年9月23日に法文科系統徴兵猶予停止案が発表された後、9月30日から出征間近の12月6日まで記された"遺留のノート ─弟妹のために─"の中で10月3日に書かれた妹の若菜さんへ向けた言葉です。映画"出口のない海"でもこの一節が活かされています。
1945(昭和20)年5月28日、轟隊の伊363潜ではじめて出撃します。回天戦の機会はなく、6月28日に光基地に近い平生基地に帰着しました。出撃後も日記を記していた和田稔さんですが、出撃後最後の日付は6月20日のもの。そこには18日夜に帰投命令を受けたことが理由でしょう、死生観について記されています。死を覚悟して出撃したが果たすことなく帰投すること、これは和田稔さんの気持ちに変化を与えたのかもしれません。帰投してからはじめての日記は7月18日でした。7月31日に再び伊363潜で出撃することも記されています。そしてこの7月18日が最後の日記となりました。
5月28日に出撃してからの手記は"最後のノート"として出撃の際はもちろん、帰投後の訓練中も常に持ち歩いていたそうです。訓練中に行方不明となった7月25日の朝は隊長の上山中尉からトランクを借りて恩賜のタバコ、写真、日記、私物を入れて回天に持ち込んでいます。
なぜそんなことをしたのか、そしてずっと日記を記していた和田稔さんが最後に何も記していないのか、その理由はわかりません。でも、やはり一度出撃して戻ってきたことが影響しているのではないでしょうか。
碑の後ろに拡がる海
和田稔さんがのった回天は終戦翌月9月の台風で浮上しこの地に漂着しました。海岸で荼毘に付された遺骨は当時光基地の近くに滞留していたという上山中尉により沼津の遺族のもとへ届けられました。
とてもキレイな海。自身の意思とはまったく異なる人生を歩まされ、望まない死をした多くの若者たちがいたことを忘れないよう、これから先同じことが繰り返さないようにしないといけません。
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