探知講堂モニュメントに石碑が追加される
先月27日に大竹市にある旧日本海軍の潜水学校探知講堂モニュメントを観に出かけました。国道2号線を走れば海岸線が気持ちよく、モニュメントのある公園は海に面していて近場のドライブの目的地としてとてもいいところ。
潜水学校探知講堂モニュメント
広島県大竹市… 目立ってはいませんが、太平洋戦争末期になると立派な海軍の街になりました。昭和15年12月に呉海兵団大竹分団が開設され、翌16年11月に大竹海兵団として独立。さらに翌17年には呉から潜水学校が移転してきました。このモニュメントは潜水艦乗組員がスクリュー音と聞き分けるための訓練が行われていた探知講堂(電測水測講堂)の一部です。興味のある方は2011年に訪れたときのページにお立ち寄りください。
石碑が追加されている
“ドライブの目的地としてとてもいいところ" と記しましたが、この日訪れてみると見たことがないものが。直近では2年前に訪れたのですが、そのときはなかった石碑がモニュメントに通じる道に沿って設置されていました。
“石碑" というか “ストーンアート" というか… どう表現するが正しいのかイマイチ自信がないのですが、上写真のように4つ並んでいました。4つの石碑(とりあえず"石碑"といいます)には絵が描かれています。
左上がこの近辺のマップ、右上が大竹港での引揚事業、左下が工場夜景、右下がモニュメントになっている潜水学校の探知講堂です。それぞれ絵の反対側には説明が記されていました。左上のマップ裏の説明が4つの絵の概要を記していたので記します。
一九四五年に戦争が終結すると、政府は海外に残された在留邦人の引き揚げのため大竹港を上陸港に指定。同年十二月にはのちに国の重要文化財となる大型船・氷川丸も入港している。引き揚げ業務完了までの約一年間で二百十九隻が入港し、四十一万人を超す人々がこの大竹で日本の地を踏んだ。
海兵団跡地を利用した施設の整備が急速に、一九四五年からは呉海軍病院が国立大竹病院になる。一九四七年からは組合立大竹中学校。一九四八年からは広島管区警察学校。一九四八年からは町立大竹高等学校が海兵団跡地を転用。 その後ここに日本初となる石油化学コンビナートが建設されたのは一九六二年のことであった。現在ではパルプや化学繊維などの企業も加わり瀬戸内工業地域の重要な一帯として発展。大竹港の正面に立つ工場群はとりわけ美しく、人気の高い工場夜景スポットとなっている。
書・画 長野 貢
もう少しこのマップにコミットします。
大竹港には410,783人が引き揚げてきました
石碑のマップと終戦後に米軍が撮った空撮写真を並べてみます。
想像していた以上に一致していて驚き(笑)。
大竹海兵団跡と潜水学校跡がよくわかります。大竹に海兵団があったことを示す遺構もほとんどないのですが、唯一といえるのがマップにもある大竹海兵団跡之碑。三井・デュポンポリケミカル大竹工場にあります。私は2012年に訪れました。
終戦後、国は外地にいた邦人を日本に送還する引揚事業をはじめます。その上陸地のひとつに大竹港が指定されました。その業務のために大竹引揚援護局が設置されます(のちに現地米軍(米国第6軍司令部)より広島県知事に対して宇品に受入本部を設置すべしと指示があり、宇品援護局大竹出張所となりました)。
昭和20年12月に最初の引揚船が入港してから昭和22年1月末までの間に410,783人が大竹港から上陸しました。日本に戻ってくることができた安心感、喜び(そして不安も)は私などが想像できるものではないでしょう。太平洋戦争が終わってもうすぐ74年。同じような経験を若者たちがすることがないようにしなければいけません。
参考文献など
- JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.A17110076000、厚生一般例規・第八冊・自昭和十七年至昭和二十一年(国立公文書館)
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