旧帝国陸軍:大君低砲台の繋舟場
6月26日は呉~江田島とまわりました。目的地のひとつが「呉・江田島・広島戦争遺跡ガイドブック」(著:奥本剛氏)で紹介されていた「早瀬船着き場」です。
広島湾要塞から第五師団工兵第五大隊へ
場所は早瀬大橋すぐそば。少しだけ南に下ったところです。明治時代に広島湾および呉軍港へ敵艦船が侵入するのを防ぐために陸軍により広島湾要塞が設置されました。大柿町にも広島要塞を構成する「大君低砲台」がつくられました。以前訪れた三高山堡塁や高烏堡塁と同じです。この繋舟場はその大君低砲台の付属施設のひとつです。
早瀬大橋側から撮ったものです。立派な石組み(凄)。下記参照資料などから明治33年頃に作られたものだと思うのですが、これだけキレイに残っているのは凄いと思います。海に向かって低くなっているのがわかります。また、先端付近に階段があります。この写真ではわかりませんが、反対側にも同じように階段があります。どういった使い方をされていたのだろう?
先端はこのように半円状になっています(驚)。この形に意味があったのだろうか... なんて思うと、ますますどういった使い方をされていたのだろうと思わずにはいられません(笑)。
そんな大君低砲台ですが、付属施設も含めて大正14年に用途変更されています。
この大君低砲台の付属施設およびその敷地は用途変更される前から工兵第五大隊が漕舟演習に使っていました。この場所がその演習に適しているということで、"平時"は漕舟演習(及び海岸桟橋構築演習)場として用途変更されます。この時点では要塞が必要になったときは直ちに要塞として使用するという付帯条件がありました。
その翌年大正15年に広島湾要塞が廃止されました。要塞それぞれが処分されたのですが、大君低砲台については海軍が管理するようになります。しかし、陸軍の使用を承認することを条件としていました。海軍が使ったような資料はなかったので、太平洋戦争の終戦までずっと陸軍(工兵第五大隊)が使っていたのかもしれません。
「呉・江田島・広島戦争遺跡ガイドブック」には地元の方の話として太平洋戦争中は船舶工兵が使っていたとあります。資料は見つけることができなかったのですが、船舶工兵は工兵第五大隊第三中隊がそのもととなっているので、その流れでしょうか。
決して大きくない繋舟場なので、知らなければ気にしないかもしれません。でも、こういった繋舟場にもいろいろな歴史があるんだと思うと、行った先々でそこにあるものを見る目が変わってきますね。
参考にした書籍など
- 呉・江田島・広島戦争遺跡ガイドブック / 奥本剛(光人社)
- JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C10062341300、明治33年自1月至6月 密受々領編冊(防衛省防衛研究所)
- JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C03012180700、大日記乙輯大正15年(防衛省防衛研究所)
- JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C01003742700、昭和02年「密大日記」6冊ノ内第3冊(防衛省防衛研究所)
このページの公開日:2016.07.07