旧帝国陸軍:高烏堡塁跡
1月7日に高烏堡塁跡を訪問しました。現在は音戸の瀬戸公園のひとつ(?)高烏台公園として整備されています。一般には堡塁跡よりも平清盛公日招像がある公園として耳にしたことがある人が多いのではないかと思います。
下の写真は公園からの眺め。このときはちょうど雲が多くて残念でしたが、瀬戸内海の多島美を見ることができます。
高烏堡塁跡とは
高烏堡塁は広島湾要塞の一部です。つまり、2008年5月に訪れた三高山堡塁と同様の経緯で築かれた堡塁です。ただ三高山堡塁と異なるのは、実際に28cm榴弾砲が設置されることはなかったということ。
下記は呉市により設置された案内板に記されていた説明です。
この花崗岩造りの一連の構築物は、旧高烏砲台の跡である。
明治十六年第二海軍区鎮府の候補地として呉港があげられ、明治十九年七月軍港設置とともに敵の艦砲射撃に備えて軍港防備の陸上砲台は陸軍において構築することになり、陸軍予算として閣議にあがったが、第一期計画からは除外された。
たまたま日清戦争が起こるにいたって、広島に大本営が置かれるなど情勢の変転に伴って再び砲台構築の議が起り、明治二十九年陸軍の手により砲台、火薬庫、兵舎などの工事が始まり、引き続き同三十二年から三ヶ月の歳月を費やして完了した。
後になって海軍の所管に移され太平洋戦争においては専ら防空砲台として使用されたが、明治中期の軍港を護る要塞砲の形式としては珍しいものである。
呉市
「同三十二年から三ヶ月」というのは三年の間違いですね(汗)。
砲座
三高山堡塁にあった砲座跡は見えません。実際に28cm榴弾砲が設置されなかったということで、もともとなかったのかどうかはわかりません。
砲側庫
砲座横にある砲側庫。三高山堡塁と違って入ることができないようになっています。
真ん中の砲側庫に書かれていた文字「慶急○火薬庫」?
三高山堡塁と同様に「砲台」→「砲側庫」→「砲台」→「砲側庫」・・・ と3つ並んでいます。青い○で囲んでいるところが砲台です。砲側庫が半地下となっていて砲台からは階段でおりるというところも同様です。
観測所
最初に記した「平清盛公日招像」の下にあるのが観測所。砲台との位置関係でいうと、3つ並んだ砲台からさらに音戸の瀬戸側になります。
待避所?
こちらは観測所からもっとも遠い砲座。この穴はなんだろう? 砲座横にあることから想像すると、敵の砲撃から一時的に避難する場所でしょうか?
兵舎
こちらは兵舎です。砲台からは一段さがった場所にあります。三高山堡塁跡の兵舎には屋根がつけられていたので、感じ方がかなり異なります。この石積みの構造物はまるで遠い過去の遺跡のような雰囲気・・・ って、立派な遺跡であるわけですが(汗)。
現存している構造物ではこれぐらいでしょうか。あと、ここにはない建造物としては、火薬庫が、入船山記念館に移転され復元されています。
この高烏堡塁は他の広島湾要塞を形成した他の堡塁と同様に敵艦船の進入を阻止するために使われることはありませんでした。しかし、設置されていた案内板にあるように、太平洋戦争中は防空砲台として高角砲(下記資料の引渡目録には十二糎七高角砲6門とあります)およびその関連施設が設置されました。
太平洋戦争時、米艦載機は最初の写真にある島の向こうからやってきていたのでしょう。1945(昭和20)年3月および7月の呉軍港空襲時はこの高烏防空砲台でも激しい戦闘が行なわれたに違いありません。
今年はこの公園に多くの観光者が訪れるでしょう。少しでも多くの人がこういった戦争遺構が存在していることを知って、何かを考えるきっかけになればいいなと思います。
おまけ:平清盛公日招像と猫
2012年の大河ドラマは平清盛。観光客が増えるであろうことを期待してでしょう、この高烏台公園はキレイに整備されていました。約10年ほど前に来たことがあるのですが、そのときとはまったく違っていました(汗)。
この公園の見所は「平清盛公日招像」。この清盛が音戸の瀬戸を切り開くという難事業を沈む太陽を招き返してその日のうちに完成させたというのがこの下の写真にある音戸の瀬戸。
左に小さく見える橋が現在の音戸の瀬戸大橋。手前の大きいのが第二音戸の瀬戸大橋です。この第二音戸の瀬戸大橋がかけられるときには多くの見物者が集っていたそうです。
そしてコイツは駐車場にいた猫。コイツのほかにも2匹の猫がいました。人が寄っても逃げることなく、そしてこのように丸々太ってるということはかなり人慣れしてるってことなんでしょうね。車に轢かれないよう注意してほしいものです。
参考にした書籍・資料
- JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C08011271900、昭和20年9月1日 引渡目録 呉警備隊(①-引渡目録-257)(防衛省防衛研究所)
このページの公開日:2012.01.10