旧帝国海軍:光海軍工廠の廃材でつくられた橋
光海軍工廠は1940年(昭和15年)10月1日に開設され、終戦前日の1945年(昭和20年)8月14日に延べ167機のB-29による空襲により壊滅。工廠が壊滅しただけなく、一度空襲警報が解除されたあとということもあったのでしょう、738名と多くの犠牲者を出しました。終戦前日に犠牲となってしまった方々のご家族の悲しみは想像もできません。
広島にはその光海軍工廠の廃材(鋼材)を使ってつくられたという橋が二つあります。二つの橋はJR海田市駅そばに架かる九十九橋と平和記念公園そばに架かる本川橋。ともに戦後の物資不足の中で再建された橋です。
私自身は2009年に光を訪れたときにこのことを知りました。上は光文化センターに展示されていたそれぞれの橋の写真と新聞記事です。特に平和記念公園そばの本川橋は日頃もよく渡っているので、このことを知ったときはとても驚いたのを思い出します。
JR海田市駅そばの九十九橋
九十九橋は1950年に完成した瀬野川にかかる全長70m、幅4.6mの小さな橋。この九十九橋をつくるために光海軍工廠の廃材が活用されたことがわかったのは後の関係者の証言からだそうです。
橋を作っている鋼材をみると、他から流用されたのが想像できます。
それはボルトでとまっていない意味のない(?)ボルト穴をたくさん見つけることができるから。この九十九橋のために作られた鋼材でないということが想像できます。また、銃痕らしき穴もたくさん見られます。空襲時に受けたものでしょう。
平和記念公園そばの本川橋
こちらの本川橋は1949年に完成した本川にかかる全長73.2m、幅6.7mの橋です。明治につくられた初代の本川橋は原爆で壊れ、翌月の枕崎台風で完全に落ちてしまいました。枕崎台風といえば、訓練中に行方不明となった和田少尉の回天を浮上させた台風ですね・・・
話がそれてしまいました(汗)。新聞記事(中国新聞2006年2月11日)によると、九十九橋の記事を読まれた方(実際に九十九橋の設計や工事を担当された方)が「兄弟橋」である再建されたこの本川橋のことを中国新聞社に情報提供されたそうです。
見るとわかるように、この本川橋をつくっている鋼材にも利用されないボルト穴がたくさんあります。九十九橋と違うのは、銃痕らしき跡を見つけられないこと。記事中に「町工場で鉄材の弾痕をふさぎ」とあるので、そのおかげでしょうか。
日頃何の気なしに利用しているもののなかにも、それぞれ歴史があるんだとあらためて感じましたのでした。
参考にした書籍・資料
- 中国新聞 2005年(平成17年)5月10日記事
- 中国新聞 2006年(平成18年)2月11日記事
このページの公開日:2011.06.17