旧帝国海軍:光の海軍工廠と回天基地
10月3日のことですが、戦時中に海軍工廠、回天基地があった光に出かけました。
光市文化センターの光海軍工廠に関する展示物
最初に訪れたのは光市文化センター。ここには海軍工廠の資料などが展示されています。
光に海軍工廠がつくられたのが1940年(昭和15年)10月、海軍工廠の工員養成所に回天基地があてられたのは戦争末期の1944年(昭和19年)11月です。ともに終戦前日の1945年(昭和20年)8月14日の大空襲により壊滅してしまいました。
光廠会記念碑・平和の光
続いて訪れたのは武田薬品工業の光工場。入口そばに光廠会記念碑があります。
戦雲急を告げる昭和十五年十月一日、光海軍工廠はこの地に開庁、大戦中は建設と生産を併行して推進、従業員、動員学徒三万数千人は一丸となって辛苦の職域活動に挺身した。しかるに終戦の前日、昭和二十年八月十四日の空襲により壊滅し、不幸にも犠牲者七三八名を数え、光海軍工廠の命運はここに尽きた。
星霜は移ること四十年、いま我ら光廠会の名の下に集い、戦中の日々に思いを馳せ、殉職者の冥福を祈るとき、万感惻々として胸に迫る。
ここに新たな決意のもと、不戦の信念を堅持、恒久平和の礎たらんことを誓い、記念碑-平和の光-を建立する。
昭和五十九年五月二十日 光廠会協賛者一同
武田薬品工業 光工場
こちらは武田薬品工業の光工場。一部に旧光海軍工廠の施設が使われています。
回天の碑
最後に光井港にある回天の碑を。光の回天基地からは1945年(昭和20年)2月の千早隊にはじまり、神武隊、多々良隊、天武隊、轟隊、多聞隊と多くの若者たちが国を護るため、自分の大切な何かを守るために出撃し、そして散っていきました。
太平洋戦争末期の昭和十九年十一月二十五日 人間魚雷「回天」光基地が 光市のこの地に開設された
「回天」とは海中を潜り敵艦に体当たりする一人乗りの人間魚雷のことである
祖国 日本を守るため 潜水艦に搭載されて 南太平洋に出撃した
「回天」に搭乗した若者は 再び生きてこの地に還ることはなかった
わたしたちは祈る あなたがたの御魂が ふるさと光に安らぐことを
わたしたちは誓う 未来の子どもたちへ 平和の志を、確かに伝えることを
前回阿多田交流館に出かけたときに記した久家稔少尉はこの光基地から出撃して散っていった搭乗員です。また、横山秀夫氏の小説「出口のない海」の主人公並木浩二は一度出撃して帰還したあとの訓練中に消息を絶ち、戦後の台風で回天が浮かんできます。これは光基地で1945年7月25日に和田稔少尉が訓練中に消息を絶ち、戦争終結後の台風で回天が漂着した史実に基づいたものなんだろうということが想像できます。
回天基地跡
もうひとつ小説「出口のない海」がらみで。主人公並木が沖田に日本はもう負けたほうがいいという話をする場面があります。「祖国のために死ぬ、家族のために死ぬ」と話す沖田に並木は「それは他のことを考えないように教え込まれてきたからだ」と話します・・・
これは横田寛氏の「あゝ回天特攻隊」(光人社)に予備士官のM少尉が横田氏に話された内容に基づいたものだろうと思われます。上のようなやりとりをしたあとにその少尉が横田氏に話した結論は「俺は天皇のために死ぬんじゃない。俺だけは違う。俺は新生日本の礎石となる。そのさきがけになるために死ぬんだ。」と。このM少尉は戦後に国立大学の教授になり、アメリカで研究生活をされたそうです。
自分が特攻という普通ではない手段によって死ぬ理由を求める若者たち。生還の望みがまったくない特攻なんて攻撃自体が狂っており、そんな攻撃で死ぬ自分をどう納得させるかということは言葉では表すことができないほど難しい。情けないですが、自分にはできないだろうと思います。
回天に関連する書籍
私が読んだ回天に関する書籍、回天についての記述がある書籍です。
このページの公開日:2009.10.23