海から空へ 広海軍工廠と航空機

COVID-19感染拡大防止のために閉館していた大和ミュージアムが6月3日に再開館。同時にはじまった第28回企画展 “海から空へ 広海軍工廠と航空機 Hiro naval arsenal and airplanes"を6月11日に観に出かけました。

第28回企画展 海から空へ

広海軍工廠と第11海軍航空廠

最初に広海軍工廠について少し記します。広海軍工廠は、1921(大正10)年に呉海軍工廠広支廠として開設されました。その後1923(大正12)年に独立し、広海軍工廠となります。さらに1941(昭和16)年に広海軍工廠内の航空機部が独立し、第11海軍航空廠が設置されました。

本土爆撃が激しくなると、空襲による生産への影響を少なくするために第11海軍航空廠でも地下疎開工場が作られました。そのひとつが1941(昭和20)年1月につくられた岩国支廠。岩国支廠でも紫電改の生産を目指していましたが、完成を迎えることなく終戦を迎えています(岩国支廠については、2014年にその跡地を訪れました:旧帝国海軍:第11海軍航空廠岩国支廠)。

1945(昭和20)年5月5日に行われたB-29約150機の集中爆撃により広海軍工廠・第11海軍航空廠ともに壊滅的な被害を受けます。この爆撃により、工廠としての歴史は終わったといってもよいでしょう。そしてこの爆撃では、工廠施設だけでなく、働いていた軍人、動員されていた学徒も多く被害を受けました。

今回の企画展"海から空へ 広海軍工廠と航空機"では、この第11海軍航空廠跡(現米陸軍広弾薬庫)で見つかった誉発動機(誉エンジン)の主要部分が展示されています。

展示されていた複数の発動機

展示されていた誉発動機主要部

ということで(?)展示されていた誉発動機(主要部)です。ナカナカ見ることもできないものなので、同じような写真ですが並べます。

第11海軍航空廠跡で見つかった誉発動機の一部
第11海軍航空廠跡で見つかった誉発動機の一部
第11海軍航空廠跡で見つかった誉発動機の一部
第11海軍航空廠跡で見つかった誉発動機の一部
展示されていた誉エンジン(一部)の説明

“誉(エンジン)"と聞いて私が抱くイメージは、次のようなものです。"故障しやすい"、"製造の歩留まりが悪い"、"設計通りの性能がでない"、でも"ちゃんとした個体は性能がいい"、"燃料がまともだったら当時の米軍機にも負けない" といった感じ。正しいのかどうかはわかりませんが(苦笑)。

製造の歩留まりが悪いこと、設計通りの性能が出ないことは当時の日本はすでに戦争を遂行するための資材が十分になかったことが大きな理由です。

そう、戦争を遂行するための資材を調達することができなかった日本。兵站、ロジスティクスを軽視していたと言われます。そこは間違いないと思うのですが、もともとの国力に圧倒的な差があったわけで。

仮に将来、物騒な隣国との戦争になったときに同じ轍を踏まないようにするためにはどうしたらいいのだろう、大丈夫なのだろうかと感じます。

ハ107 空冷星型複列18気筒発動機

誉エンジン(一部)の前に展示されていたのは"ハ107 空冷星型複列18気筒発動機"。誉発動機と同じ18気筒の発動機です。誉エンジン(一部)のクランクシャフトの高さをあわせて展示することによって、エンジン全体をイメージしてほしいという意図があって展示されています。

こうやって見てみると、やはり迫力が凄い。これが本物のみが持つ力なのかもしれません。こんな力は昨年あらためて陸軍の旧被服支廠を訪れたときにも感じましたが、歴史を伝えるためには意味のあるモノを残していかないといけないのかもしれません。

さて、誉発動機の搭載機として最初に思い浮かぶのは、やはり第11海軍航空廠でも生産を目指していた紫電改。そして紫電改といえば、本土防空を行っていた松山や大村の部隊を思い浮かべます。ちなみに、紫電改の最後の実戦は横須賀の部隊でした。しかもそれは玉音放送後の1945(昭和20)年8月17日のことで来襲したのはB-32。撃墜こそなかったものの、米軍では乗員1名の死者がでました。

“紫電改"はアメリカに3機、日本に1機現存します。日本の1機は松山の部隊のものでしょう。愛媛県南予市の南レク紫電改展示館で展示されています。アメリカは無理でも、愛媛の南レク紫電改展示館は機会を見つけて行ってみたいものです。

秋水の関連部品

誉発動機ではない展示物で(私的に)目を引いたのが秋水のもの。

秋水の関連部品

上写真左手前がタービン部品、右側が燃料室、右尻の樽にみたいなのが燃料容器です。"秋水"といえば、ドイツで開発されたロケット推進戦闘機(メッサーシュミットMe163)を元に設計された戦闘機。ドイツから日本へ潜水艦でその情報を得ようとしたものの、途中撃沈されました。そのため、一部の情報のみで開発がすすめられましたが、終戦までに試作までしかできませんでした。

誤解を恐れずに記すと、"秋水"の開発が進んでいた頃はもちろん、"紫電改"を第11海軍航空廠をはじめとする各地で生産をしようとした頃でも、戦局はもうどうしようもなかったかもしれません。終戦の形といったものなどは考えられない状況だったに違いありません。

考えられないのか、考えることをしなかったのか、あるいは本土決戦を考えていた向きもあったのでしょう。今回の書き込みに限らず何度も記していますが、有事の時こそ適切な指導者がリーダーシップを発揮して正しい方向へ導いてくれること、自身を含めて国民のそれぞれが考えて実行に移すことが必要だと感じます。

なんだかまとまりのない文章となってしまいましたが、こういった展示に限らず、COVID-19感染には注意を払って、皆が自身の楽しい時間を過ごしていくことができればいいなと思います。

参考文献など

  • 「紫電改」&「疾風」逆転を賭けた日本陸海軍の二大決戦戦闘機 丸2018年2月号別冊付録(潮書房光人新社)