コンクリート船 武智丸
2024年9月は2週連続で3連休。最初の三連休最終日の9月16日、呉市安浦町へ防波堤になっている武智丸を観に出かけました。武智丸を訪れるのは2008年11月以来なので14年ぶりです。
残っているコンクリート船
防波堤入口近くにある説明板です。以前訪れたときは防波堤に行くことができたのですが、行けないようになっていました。心無い者による所業のために行くことができないようにしたらしい。たしかに14年前に訪れたときも、とんでもないものがあったりしました(+_+。
説明板の"建造の経緯"を記します。
第二次世界大戦で鋼材不足を補うため、舞鶴海軍工廠 林邦雄海軍技術中佐がコンクリート船を設計、研究の結果、本部にて採択され大阪府土木会社武智昭次郎氏により高砂市の塩田跡地の造船所にて建造した。
県内では、安浦町二隻、音戸町一隻が現存している。
武智丸は昭和十九年から二〇年にかけて四隻建造、三隻就航瀬戸内海を始め南方にも航海したといわれる。
武智丸は自身で動くことができる船でした。そんな武智丸の前に建造されたのが自身では動くことができない曳航される油槽船(被曳航油槽船)です。この被曳航油槽船について私が直接見つけることができた情報は下の海軍広報のみでした。この海軍広報によると、五隻建造されたのは間違いありません。
説明板にある音戸町(坪井漁港)の一隻は被曳航油槽船です。この海軍広報にある五隻のうちの一隻なのか、それとも日本船舶海洋学学会の論文にあるように同時期に逓信省海務院で建造されていたものなのかはわかりませんが、武智丸2隻と音戸町のコンクリート船が呉市に堤防として残っているというのは凄いですね… 呉だからかな?
ちなみに被曳航油槽船は山口県の笠戸島にも残っています。少し前に山口のローカル番組で取り上げられていました。そういったことがあると、私のページへの来訪者が増えます(笑)。
水の守り神 武智丸
説明板の"安浦漁港に据付けの経過"を記します。
昭和二二年当時、安浦漁港には防波堤がなく台風の都度漁船に被害が発生するので、当時の漁業共同組合長 管田国光氏の大奔走により、武智丸を防波堤をして据付けることに決定し、呉土木事務所の設計により事業費八百万円(当時)の巨費が投じられた。
海底をさらって深くし、粗朶沈床の上に置換砂を均しコンクリート船を沈設し周辺には船体安定用の捨石が施されている。昭和四八年第五次漁港整備計画で撤去の話もあったが船が強固なため保存し引続いて防波堤の役目をしている。
このページを記している2024年は武智丸が建造されて80年経つ年となります。船としてつくられたものが80年経った今は防波堤として漁港を、町を護っている。武智丸もそんな人生(?)になるとは想像もしていなかったでしょう。来年は終戦80年となります。武智丸が取り上げられる機会が増えるかもしれませんね。
参考にした書籍など
- J-STAGE 日本船舶海洋工学会講演会論文集 第26号 2018S-OS1-8 コンクリート貨物船武智丸
- JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C12070450300、昭和18年1月.昭和18年12月 海軍公報(部内限)号外(防衛省防衛研究所) 1ページ目
- JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C14010955900、発来翰綴 昭和20.1~3(防衛省防衛研究所)
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