回天訓練基地跡

もう1か月以上前のことになるのですが、10月26日に山口県周南市の大津島を訪れました。大津島を訪れるのは本当に久しぶり。振り返ってみると、7年ぶり4度目の訪問でした。

大津島 馬島港 “ようこそ 回天の島 大津島へ"

回天菊水隊隊員の寄せ書きをみて

今回、久しぶりに大津島を訪れようと思ったきっかけは8月に江田島で開催された海上自衛隊第1術科学校 教育参考館 特別展。このとき回天の紙芝居と菊水隊隊員の寄せ書きをみて久しぶりに訪れたいと考えたのです。

これまでの大津島訪問時(2008年2009年2012年)には回天記念館の展示物、その人物について記してきました。今回は回天記念館以外のことについて記そうと思います。

大津島回天神社

前回訪問時にはなかったものができていました。馬島港すぐそばの “大津島回天神社" 。

大津島回天神社

なんでしょう、神社なのですが神社という雰囲気を感じなかったのです。あとで調べてみると、私が訪れた翌週の11月3日に竣工式が予定されていました。

もともと回天基地の兵舎近くに「回天神社」という名の祠がありました。しかし終戦後、「回天神社」は島を追われ、祠は本土にある山崎八幡宮が管理することに。祠にあった位牌は一時回天記念館で保管されていたものの、山崎八幡宮に合祀されました。

また、帝人の徳山事業所敷地内に靖国神社から分祀(ぶんし)された回天搭乗員の御霊を祭る「白浜神社」があったのですが、平成29年に事業所が閉鎖されます。このとき回天搭乗員の御霊も山崎八幡宮に合祀されました。

この合祀をきっかけに 回天搭乗員の御霊を大津島に戻すべく活動がはじまります。そして寄付や土地の提供を受け、回天の初陣75年となる今年2019年11月3日に竣工式を迎えることができたのでした。

回天訓練基地の概要

ということで(?)、訓練基地について記します。まずは基地の概要を。終戦後に米軍が撮った写真です。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより 大津島回天基地

いくつか建物があるのがわかります。次のアジア歴史資料センター(アジ歴)の終戦時の資料と比較してください。

アジア歴史資料センター 大津島分遣隊要図

…わかりにくいかな(汗)。写真で真ん中ぐらいにある色のついた屋根の建物がアジ歴の資料で細い短い線が中にある建物になります。アジ歴の資料によると、そこには回天が43基、魚雷23本、震洋が9隻あったようです。

この建物左側から上に向かっているのが回天を訓練基地(魚雷発射試験場)まで運ぶトロッコのレール。トンネルとは別に海側にも運搬ルートがあったのがわかります。

隊門とかトンネルとか

こちらは隊門。きっと米軍が撮影した写真で青く丸をつけているあたりだと思っているのですが、違っているかも。

大津島分遣隊 隊門

そして訓練基地へつながるトンネルの内部。幅が拡がっているところは複線となっていて、整備が完了している回天が予備基としておいてありました。これは調子の悪い回天があった場合でもこの予備基と換えることで、訓練を行うことができるようにしているためです。

訓練基地へのトンネル 内部

出撃すれば死しかない兵器(回天)に搭乗するための訓練。搭乗員はもちろん、整備員もどういう気持ちで回天を運んでいたのだろう?

回天訓練基地(魚雷発射試験場) 跡

トンネルを抜けました。写真は訓練基地側のトンネル出口です。

トンネル出口 訓練基地側

反対側を向くと訓練基地跡。

大津島 回天訓練基地(魚雷発射試験場)跡をみる

過去に訪問したときは釣り人がいたり、自分たちの他にも見学者がいたのですが、この日は私たち夫婦だけでした。映画 “出口のない海" である程度一般にも知られるようになったと思いますが、公開は2006年なのでもう13年も前のこと… 一般の方々にはすでに記憶の外になってしまっているのかもしれません。

大津島 回天訓練基地(魚雷発射試験場)跡

この回天訓練基地は、もともと昭和14年に93式酸素魚雷の発射試験場として建設されました。昭和19年に回天基地が開設されてからは回天の搭乗訓練を行うようになります。搭乗訓練を行う水域は5つあり、この訓練基地を起点とするものは3つありました。

“訓練" といっても、安全なものではありません。大津島基地では訓練中に6名の搭乗員が亡くなっています。

やがて必死の兵器に搭乗して出撃するという事実。そして搭乗訓練も命懸け。そんな戦争を続けても、よい結果になることはないと考えていた者もいるでしょう。特に自身で考えることを知っていた予備学生は様々な想いや葛藤があったに違いありません。

太平洋戦争の終戦からもうすぐ75年経ち、各地で戦争遺構がなくなってきています。"必ずしも遺構そのものを残す必要はないのでは?" と考える私ですが、こうやって訪れてみると “やはり残したほうがよいのでは" と感じたり。直接歴史を伝える存在というのは、人に訴える力、考えるきっかけとする力が違います。

もっと多くの人が知って、できれば訪れて、自身がそれぞれ考えるきっかけとなればいいなと思います。