有休をとった11月16日、大和ミュージアムで開催されているミニ企画展「観艦式 ─ 式典からみる日本海軍 ─」を観に出かけました。
「観艦式」とは誤解を恐れずに記すと、海軍が行なう軍事パレードの一種でしょうか。海上自衛隊の平成27年度自衛隊観艦式のページにはその目的を次のように記されています。
自衛隊の最高指揮官(内閣総理大臣)が艦隊を観閲することにより、部隊(隊員等)の士気を高め、国内外に自衛隊の精強さをアピールすることまた、国際親善や防衛交流を促進することや、国民の皆様に自衛隊に対する理解を深めていただくことを目的としています。
太平洋戦争前では最高指揮官が天皇ということになるでしょう。そんな旧海軍の観艦式のはじまりは1868(明治元)年に大阪天保山沖で行なわた「観兵式」です。「観艦式」の名称が使われるようになったのは1900(明治33)年の「大演習観艦式」がはじまりで、その後太平洋戦争がはじまる直前の1940(昭和15)年の「紀元二六〇〇年特別観艦式」まで計18回行なわれました。
「ミニ企画展」ということで、多くの資料が展示されているわけではありません。上の写真に資料がそのすべてなのですが、いくつか載せてみます。
上に旧海軍では18回の観艦式が行なわれたと記しましたが、その一覧が載っています。中でも1905(明治38)年の日露戦争凱旋の観艦式(凱旋観艦式)と、1928(昭和3)年の昭和天皇の即位の大礼に伴う観艦式(大礼特別観艦式)は、参加隻数がそれぞれ166隻、186隻と、とても大規模なものでした。
1928(昭和3)年に行なわれた大礼特別観艦式の式次第や陪観券、賜餞への招待状です。観艦式には文武高官や外国武官、関係者家族が招待されますが、この大礼特別観艦式では下記の外国艦船7隻も参加していました。
ピッツバーグ(米) / ケント、サッフォーク、べリック(英) / ジュールミシュレー(仏) / ジャバ(和) / リビア(伊)
"壮麗な式典"... そう、観艦式はとても壮麗なイベントです。登舷礼の写真をアップで。
1936(昭和11)年の観艦式における戦艦「長門」での登舷礼。天皇が乗艦されている御召艦「比叡」に対して行なっています。1928(昭和3)年の大礼特別観艦式に参加した外国艦船もそれぞれの礼式で登舷礼を行なったことでしょう。
最後に「紀元二六〇〇年特別観艦式」の展示物を。
1940(昭和15)年の「紀元二六〇〇年特別観艦式」は紀元二六〇〇年奉祝記念事業」のひとつとして行なわれました。そしてこの「紀元二六〇〇年特別観艦式」が海軍最後の観艦式となりました。
話がそれますが、このときの総理大臣は近衛文麿、第二次近衛内閣... 日独伊三国同盟に反対していた米内(光政)内閣のあとでしたが、第二次近衛内閣では日独伊三国同盟を締結しています。昭和12年の第一次近衛内閣のときには支事変費予算案を決定、追加することで支那事変を拡大させ、結果支那事変はこの1940(昭和15)年も続いていたという... 翌年には太平洋戦争がはじまるわけですが、その直前まで総理大臣として第二次、そして第三次近衛内閣を率いていました。
基本的に近衛文麿は米国との戦争を回避しようとしていました。しかし総理大臣のときに実際に行なったことを考えると、責任の一端があることは間違いありません。
話を「紀元二六〇〇年特別観艦式」に戻して... この海軍最後の観艦式に参加したのは次の艦たち。98隻と隻数こそ少ないですが、その多くは近代化改装されたもの、軍備拡張計画による新造艦でした。
最後に「紀元二六〇〇年特別観艦式」の写真を。
九七式飛行艇と艦船。「紀元二六〇〇年特別観艦式」では527機の飛行機(艇含む)が参加しています。それまで観艦式に参加した飛行機の最高機数は160機でした。その数の違いには驚くばかりです。この飛行機の数の変化は、海軍の軍備に対する考え方がそのまま現れたものなのでしょう。
紀元二六〇〇年ということで零戦(零式艦上戦闘機)のことを。零戦が制式採用されたのは1940(昭和15)年、当時名称は制式採用された皇紀の下2桁の数字を使うようになっていたので紀元二六〇〇年の〇〇からとられてます。この観艦式が行なわれた10月にはすでに中国大陸で初陣を飾っていましたが、この観艦式にも参加していたのでしょうか。
戦後、海上自衛隊になってから28回の観艦式が行なわれています(直近は平成27年)。これまで一度も見たことがないのですが、一度ぐらいは見てみたいなぁ~。