安芸の国から

安芸の国に暮らすおじさんのお出かけ記録です

旧帝国海軍:軍艦大淀戦没者碑_2016年

1月10日、江田島飛渡瀬にある軍艦大淀戦没者碑を訪れました。今から6年ほど前の2010年6月に一度訪れたことがあるのですが、再び訪れたくなって。

軍艦大淀戦没者碑 正面

軽巡洋艦「大淀」

2010年6月のページでは大淀について記していませんでしたので、大淀の生涯を記しておきます。大淀が計画されたときと実際に建造がはじまるとき、就役するときに戦争の様子がかわっていて... 日本軍の兵器の多くがそうだったとも言えますが、その中でも「大淀」は振り回されてしまった生涯だったといえるのではないでしょうか。

1943 (昭和18)
2月28日 就役
4月:第三艦隊(機動部隊)へ編入
12月:戊三号輸送作戦
1944 (昭和19)
2月:サイパンへ物資(航空魚雷など)輸送
2月:第三艦隊から連合艦隊付属へ
5月:連合艦隊旗艦へ
9月:連合艦隊司令部が陸上(日吉)へ上がり、連合艦隊旗艦の任務がとかれる
10月:再び第三艦隊へ編入。捷一号作戦で小澤囮艦隊の一員に
12月:礼号作戦 ミンドロ島への奇襲作戦
1945 (昭和20)
2月:第四航空艦隊に編入。北号作戦「完部隊」の一員で南方からの戦略物資輸送作戦
3月:呉練習部隊へ編入
3月:米機動部隊艦載機の攻撃により中破
5月:江田島湾内飛渡瀬に錨を入れ防空砲台に
7月:24日、28日の米機動部隊艦載機による攻撃により着底大破
世界の軍艦コレクション 大淀

大淀は潜戦旗艦(潜水戦隊の旗艦)として建造されました。潜水艦部隊が漸減邀撃を行なうために航空機による偵察を実施し、各潜水艦に指示を与えるのが目的です。そのため、大淀は旗艦として問題のない通信能力を持ち、潜水艦の索敵能力を補うために航空機運用能力を持っています。大型の水偵「紫雲」6機の搭載を予定しており、全長25.25m、幅13.6mの巨大な格納庫や全長44メートルにおよぶカタパルトによる射出機が装備されていました。

しかし就役した1943(昭和18)年には戦闘の主役は空母・飛行機となっており、潜水艦部隊による漸減邀撃などは考えられない状況でした。そのため、対空戦闘能力や航空機運用能力、長い航続力を持つ大淀は公試・訓練終了後の同年5月1日に第三艦隊(機動部隊)に編入されました。第三艦隊への編入後、カビエンへの陸兵輸送作戦「戊三号輸送作戦」への参加、サイパンへの物資輸送を行なっています。

軍艦大淀戦没者碑 右から

そして1944(昭和19)年2月に第三艦隊から連合艦隊付属へ。これは当時連合艦隊旗艦だった「武蔵」を戦力化するため、別の艦を旗艦とする必要がありました。その役が「大淀」にまわってきました。もともと潜戦旗艦として建造された「大淀」は旗艦となりうる通信能力を持っていたためです。司令部要員のための空間は「紫雲」がいない格納庫が転用されました。この改装を終えて5月に連合艦隊旗艦となっています。

同年9月に連合艦隊司令部が陸上に上がると「大淀」は連合艦隊旗艦の任務をとかれます。再び第三艦隊へ編入された「大淀」は捷一号作戦に小澤囮艦隊の一員として参加。旗艦「瑞鶴」が損傷し、小澤司令部が移乗してきた「大淀」は旗艦となりました。作戦は参加した四空母全滅というもの。しかも栗田艦隊はレイテへの殴りこみを行なうことなく... 「大淀」は奄美大島で小澤司令部をおろした後、ブルネイに進出し礼号作戦に挺身部隊として参加しています。ちなみにこの挺身部隊の司令官は「キスカ島撤退作戦」を指揮した木村昌福少将でした。その後、昭和20年2月に「伊勢」「日向」とともに内地に呼び戻されます。この際に戦略物資を内地に運ぶ命令がでます(北号作戦)。そして2月20日、奇跡的に被害を受けることなく呉に到着することができました。

内地に戻った「大淀」は、内地の燃料事情から呉練習部隊へ編入されます。しかし3月19日、米機動部隊艦載機による呉への攻撃で中破。完全に修理されることもなく、5月4日に江田島湾内の飛渡瀬村沖に錨を入れ防空砲台となりました。そして7月24日および28日のハルゼーの米第三艦隊第38任務部隊艦載機による攻撃により大破着底し、その生涯を終えました。

軍艦大淀戦没者碑 左から

この7月の攻撃では写真の軍艦大淀戦没者碑誌(下記します)にあるように飛渡瀬村の住民が消火の応援や戦死傷者の収容に応援にやってきました。5月にこの飛渡瀬村に錨をおろして以来、乗員と村民の交流が深まっていたからでしょう。そんな大淀の乗員と村民との関わりを伝える紙芝居があるという話を聞きます。一度見てみたいです。

軍艦大淀戦没者碑誌

太平洋戦争の末期 日本国内は長期にわたる戦争のためあらゆる物資が極度に欠乏し南海に数々の功績を残した当時の最新鋭巡洋艦大淀も 重油不足により 乗組将兵と共に 江田島湾の奥深く 飛渡瀬内海沖にその英姿をかくしていた

昭和二十年七月二十四日未明のこと米国海軍機動部隊は 突如として 土佐沖に姿をあらわし 艦砲射撃を行うと同時に 艦載機による本土攻撃をはじめた 不幸にも大淀は それらの艦載機の発見する処となり 約一時間におよぶ 波状攻撃をうけた 大淀乗組の将兵は これに屈することなく機銃 高角砲 主砲までも砲門を開き 迎撃を敢行した 然し航空機の波状攻撃にはおよばず 戦死傷者は続出し 艦内各所に火災が発生し 猛威をふるうに至った

米海軍艦載機は その後も攻撃の手をゆるめることなく 五日間断続的に 攻撃を繰り返した

艦上に炸裂する爆弾 天空も裂けよとばかりに火を吹く主砲 そして高角砲 間断なくうち続けられる機銃 せまい内海を 尊い血潮で 紅に染めつつ 勇敢なる将兵は 激戦を続けた このような極限状況下にあって 当時の飛渡瀬警防団および国防婦人会は 戦闘の合間をぬって燃え続ける艦の消火活動や負傷兵の救出 手当等に 必死の活躍を続けた 然しその甲斐もなく 昭和二十年七月二十八日 遂に軍艦大淀は 十発以上もの至近弾直撃弾により 浸水はなはだしく 横転し 内海沖に没した この間 草間四郎大尉以下二百七十余名の若き生命は 祖国の栄光を信じつつこの内海に散華された

多くの遺体を茶毘にふす煙は 飛渡瀬の空を 三昼夜覆い 純朴な島民の涙をさそった 再び繰り返してはならない 戦争の惨状を後世に伝えると共に英霊の冥福と平和への願いをこめて 慰霊碑は建立された

大淀が大破着低した江田島飛渡瀬の内海です。

大淀が着底した江田島の内海

冬の寒い日ではありましたが、とても静かな海でした。終戦間際の空襲で多くの犠牲者を出して軍艦が沈んだ海だなんて知らない方は想像できないでしょう。

最後に戦後の「大淀」の写真を。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス USA-M126-56(1947年3月18日撮影), USA-M691-79(1947年12月15日)

国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで見ることができる2枚の写真。左は1947年3月18日、右は同年12月15日に米軍により撮影されたものです。左側の写真が撮影された1947年3月といえば終戦から1年半ほど経っていますが、まだ横転したままだったのですね。損傷の具合やまわりの環境が比較的良く完全浮揚させて解体されることになった「大淀」。右側の写真は横転状態から復元されたものかなと思います。12月22日には解体のために呉のドックにいる写真が丸SPECIALに載っているのでその直前か、あるいは写ってるのが大淀ではないか(^^;。

毎年7月24日にこの戦没者碑では慰霊祭が開催されています。地元の方々と交流があった大淀... 今年の慰霊祭、参加できるようだったら参加させていただきたいものです。

参考にした書籍など

このページの公開日:2016.01.28

コンテンツメモ

  • 訪問日:2016.01.10
  • 場所:広島県江田島市
  • 行程:宇品~切串(フェリー)...
  • X-T10 + XF18-55mmF2.8-4 R LM OIS / X30

サイトマップ

ブログ

掲示板

Copyright© webmaster@安芸の国から All rights reserved.   | このサイトについて | お問い合わせ |