旧帝国海軍:新川鉄橋銃弾跡
もう1ヶ月以上も前のことになりますが、先月11日に大社基地(第一新川基地)跡を訪れたときに銃弾跡がある新川鉄橋にも立ち寄りました。ここのところ、時期に意味がある紅葉絡みのページ更新を優先させていたので今さらの更新です(汗)。
新川鉄橋にある銃弾跡
あらかじめ場所は確認していたとはいえ、私にしては珍しく迷うことなく到着(^-^)。そこには大社基地跡と同じように説明板がありました。
文章を載せます。
新川鉄橋銃弾跡
昭和二十年(一九四五)七月二十八日の午前、四国沖の母艦から飛び立った米軍の艦載機が来襲し、機銃掃射をあびせ、海軍大社基地の飛行場(ここから一七〇〇メートル)を襲って、将兵三人が戦死しました。
この空襲のときの銃弾の跡が新川鉄橋の橋げたに残っています。鉄橋の西側の橋げたに十数発、そのうちのいくつかは東側の橋げたを貫いています。
また、西方の丘陵地には、戦闘機を迎え撃つための機銃陣地が配置されていました。
平成二十三年八月 斐川町
7月28日は呉軍港空襲のあった日でもあります。この7月28日は、ここ新川基地だけでなく浜田や米子など山陰地方で空襲がありました。米子の空襲については、赤十字をつけた車両を含む非武装への列車へ銃撃が行なわれた大山口列車空襲事件として伝えられています。ご存知の方も少なくないのではないでしょうか。
話を新川鉄橋に戻します。銃弾跡わかるでしょうか、6と書かれている囲みの左側の囲みの真ん中付近に複数あります。
その場所をトリミングしたのが下の写真。
大小いくつかの銃弾跡があるのがわかります。そして説明板にある東側に貫いた銃弾跡が下の写真。
たしかに貫いています。
ちなみにこの鉄橋、当たり前といえば当たり前なのですが現在も山陰線の鉄橋として現役で使われています。私が立ち寄る直前にも列車が過ぎ去っていきました。橋にあった刻印をみると、明治43年につくられたようで... かなり長持ちするものなのですね(驚)。
これからも日々の足を支える鉄橋としてはもちろん、戦争遺構として大切にされ、そういった過去があったことを伝えるよう活躍されることを願います。
このページの公開日:2014.11.18