旧帝国海軍:軍艦北上戦没者之碑
もう1ヶ月以上前のことですが、「戦艦伊勢日向 浮揚解撤記念碑」を訪れた9月6日は倉橋島にある軍艦北上戦没者之碑も訪れました。
軽巡洋艦北上
北上は球磨型軽巡洋艦の3番艦として1921(大正10)年に就役しました。下写真は進水記念の絵はがき。今年7月から9月まで開催された大和ミュージアムの企画展で展示されていました。3本の煙突が軽巡洋艦らしいですね。
太平洋戦争の直前、1941(昭和16)年8月に同型艦の大井とともに重雷装艦に改装する工事が行なわれました。これは日本のみが開発に成功した酸素魚雷を活用し、艦隊決戦を有利に進めることが目的。この改装により、北上(と大井)は魚雷発射管を左右の各舷にそれぞれ4連装5基で20門ずつ、両舷合計で40門搭載する重雷装艦となりました。
しかし空母およびその艦載機を中心とした戦いとなった太平洋戦争では活躍の場がありません。艦隊決戦という思想自体が希薄になります。酸素魚雷の射程が長いといっても、航空機には敵わないことは言うまでもなく。そのため北上は大井とともに1942(昭和17)年に高速輸送艦へ改装され、陸軍兵士の輸送、輸送艦の護衛などの任務に従事しました。
そして1944(昭和19)年、回天搭載母艦への改装を受け海上挺進部隊に編入されます。
そして前回記した戦艦伊勢・日向と同様に7月24日の呉軍港空襲により大破してしまいました。この日の様子をページ最後にも紹介している戦闘詳報から抜粋してみます。
- 6:08
6:50
7:55 -
呉地区空襲警報発令
対空戦闘用意
(敵機)第一波脱去 - 9:26
9:40
10:05-25 -
呉地区空襲警報発令
(北上への)攻撃態勢を見せたため対空戦闘開始
約40機が四方より攻撃。艦尾に至近弾あり。敵機を高角砲・機銃全砲火を以って攻撃するも至近弾約10を受け人員及び船体、兵器、機関に被害を受ける
この後16時20分過ぎにも敵機が約50機と交戦し、機銃掃射を受けたものの被害はありませんでした。しかし、午前の戦闘により32人の乗組員が戦死(そのほかに重傷7名、軽傷46名)。兵器や主機も被害を受け、航行不能となりました。
訪れた碑はこのときの戦死者を慰霊する碑です。
戦後は主機こそ使えなかったものの、他の補機などは使えるものだったため復員輸送支援に使用されました。その後1946年に解体され、艦の一生を終えました。
軽巡洋艦として就役し重雷装艦へ、そして高速輸送艦、最後は回天搭載母艦に改装され海上挺進部隊に編入された北上ですが、回天を搭載して出撃することはありませんでした。誤解を恐れずに記すと、これはせめてもの救いかもしれません。
参考にした書籍など
- JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08030576400、昭和20年7月24日 軍艦北上戦闘詳報 (防衛省防衛研究所)
このページの公開日:2014.10.13