旧帝国海軍:三度訪問回天の基地、大津島
6月10日に大津島へ。ここのところ、回天乗組員の遺品を周南市へ寄贈するというニュースが2件続きました。すぐに公開されるわけではないのですが、しばらく訪問していないこともあって訪れてみようと思ったのです。

回天記念館
大津島を訪れるのは2008年9月、2009年6月に続いて3度目。前回訪れてからもう3年も経っています(驚)・・・

しかし「飽きる」といったことはまったくなく、訪れるたびに感じること・考えることがあります。上は回天作戦に関わって殉職した若者たち・・・この写真を見て感じることは人によってまったく異なることかもしれません。でも、若い方々にはぜひ自身で感じて考える機会があればと思います。

こちらは搭乗員たちの一番の襲撃目標だった空母の図。乗組員たちはこの図を使って各空母の型を覚え、回天の特眼鏡から艦影を一瞬確認しただけでどの型の艦かわかるようにします。しかし、現実は最初の出撃だった菊水隊から最後の神州隊まで正規空母は一隻すら撃沈することはできませんでした。

1945年3月になると本土決戦に備えて基地回天隊が設置されました。その場所は九州南東岸、四国南岸から太平洋沿岸に沿って関東まで。
轟隊伊36潜で出撃した池淵信夫中尉

こちらは先任搭乗員として轟隊伊36潜で出撃し6月28日に大型輸送船に突入した池淵信夫中尉(戦没年齢24歳)の自画像(轟隊伊36潜の襲撃訓練の研究会上での出来事はこちら)。この池淵中尉は回天搭乗員になってから幼い頃からの許婚と結婚しています。池淵中尉の結婚生活は1週間ほどしかありませんでした。記した遺書には妻に宛てて次のようにありました。
今日の日を かねて覚悟で嫁ぎ来し 君のこころぞ 国の礎石
自画像右は父への手紙です。回天搭乗員となった以上、待っているのは死。自分亡き後の妻のことを考えると結婚を悩んでいた池淵中尉。下記ではじまる手紙には、そんな池淵中尉の気持ちが現れていました。
前略 ユキさんとの結婚云々の手紙受け取りました。
私に異存はありません。但し現在の私の立場として強く強く言っておきたい事があります。それは私の生死の問題であります。
池淵中尉は轟隊の前に神武隊、多々良隊として出撃したものの攻撃機会を得ることなく中止命令により引き返しています。妻がそのことを知っていたのかどうかはわかりません。しかし生きていて欲しかったのではないかと思います。
話はかわりますが、この日私が大津島に渡る船(ちなみに名は回天)は団体の方々が乗っていました。回天関係だろうなと想像していたのですが、私が回天記念館を出る時にひとりの墓碑前でお酒をあげたりほら貝(?)を吹いたりされていました。終了後に墓碑の名前をみると「石田敏雄(山口)」と。
調べてみると石田敏雄さんは予備学生4期で回天搭乗員となります。少尉として千早隊で1925年2月20日に伊368潜で大津島から硫黄島へ出撃しましたが、伊368潜は攻撃決行の予定日を過ぎても連絡がなく、戻ることはありませんでした。
池淵中尉や石田敏雄少尉、予備学生から戦争に参加した... 参加するしかなかった若者たちのことを考えると、なんともいえない気持ちになります。軍人として兵学校に進んだ若者たちは(誤解を恐れずに記せば)戦争で命を落とすことは覚悟があったでしょう。しかし予備学生は・・・ 平和な世の中で暮らしている私のような者には想像することも申し訳ないような気がしてなりません。

この日はとてもよい天気でした。魚雷発射試験場も青い空と蒼い海に囲まれています。自分たちが魚雷となって死ぬための訓練をしていた搭乗員もこの青い空と蒼い海を感じることができたのでしょうか・・・ これからもこの青い空と蒼い海を感じることができる世が続くことを祈るばかりです。
回天に関連する書籍
私が読んだ回天に関する書籍、回天についての記述がある書籍です。
このページの公開日:2012.06.18