旧帝国海軍:特攻艦隊留魂碑
1月29日に特攻艦隊留魂碑を訪問しました。特攻艦隊留魂碑は山口県防府市の江泊山にあります。この場所は戦艦「大和」を中心とする特攻艦隊が仮泊していたという三田尻沖を見渡すことができる場所です。
この特攻艦隊留魂碑の場所・・・ 下調べはしていたのですがとてもわかりにくく、一時は辿り着けないかと不安になりました。(苦笑)。
特攻艦隊留魂碑
この海上特攻隊は戦艦「大和」と軽巡洋艦「矢矧」率いる第二水雷戦隊(浜風 / 朝霜 / 霞 / 涼月 / 冬月 / 雪風 / 磯風 / 初霜)の計10隻からなります。
天一号作戦で佐世保に向かう予定だった艦隊は米機動艦隊が九州近海に接近という情報から予定を変更し当地待機に。その後、菊水作戦に呼応する形で沖縄へ海上特攻隊として突入作戦を実施することになります。米が圧倒的に制空権を持っている中での沖縄への突入作戦・・・ 作戦と呼べるものではありません。
碑文を記します。
母なる海の記
眼下の三田尻沖は曽て聨合艦隊が度繁く終結した、旧海軍ゆかりの泊地である。
第二次大戦末期の昭和二十年四月六日、戦艦「大和」以下十隻から成る「海上特攻隊」は、沖縄に来攻した連合国軍を迎え撃つべくこの母なる海を抜錨、翌七日奄美徳之島北方海域において五百余機の敵艦上機群と戦い、第二艦隊司令長官伊藤整一大将以下三千七百二十八名の将兵が壮烈な戦死を遂げた。
この沖合一帯はまた「回天特攻」で戦没あるいは殉職した百三十八名の若人が大津島、光、平生をそれぞれ基地として、日夜決死の体当り訓練に励んだ聖なる海である。
これらの人々の願いは自らの命に替えて祖国と同胞の恒久の安泰を購うことであった。大廈の傾覆は一木を以て支うる能わず、戦局の挽回はついに成らなかったが、今日の日本が未曾有の平和と繁栄を築き得た根底には、このように高貴な犠牲的精神と行動が在ったことを我々は深く心に銘記せねばならない。
平成五年四月 海軍兵学校72期 都竹卓郎謹記 泰鳳筆
この碑文では戦死した将兵は3728名。戦死者数についてさまざまな数字があります。海上特攻に参加した各艦の犠牲者についてひとつの人数として記します(参考:「駆逐艦磯風と三人の特年兵 / 井上理二著」)。
- 大和 (沈没)
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戦死者:2740 / 負傷者:117
- 矢矧 (沈没)
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戦死者:446 / 負傷者:133
- 浜風 (沈没)
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戦死者:100 / 負傷者:45
- 磯風 (沈没)
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戦死者:20 / 負傷者:54
- 朝霜 (沈没)
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戦死者:326(全員戦死)
- 霞 (沈没)
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戦死者:17 / 負傷者:47
- 涼月 (大破)
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戦死者:57 / 負傷者:34
- 冬月
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戦死者:12 / 負傷者:12
- 雪風
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戦死者:3 / 負傷者:15
- 初霜
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戦死者:なし / 負傷者:2
こちらでは戦死者計3721名となっています。負傷者は計459名です。戦死者数を確定するということは非常に難しいのかもしれませんが、そのことは別の問題として非常に多くの方がなくなったことに間違いはありません。
また、碑文にあるようにこの海域は回天の訓練海域でもあります。
回天発車基地跡展望地ということで、目の前に見える島は大津島。
一部を原寸サイズでトリミングしてみます。
回天の訓練に使われた魚雷発射試験場です。
特攻により多くの若者が命を落としました。私は特攻を美化するつもりはありません。それぞれに想うこと・覚悟があったでしょう。しかし、こういった尊い犠牲があったという事実は忘れられるべきではありません。
加えて忘れてはいけないのが、「特攻」という作戦とはいえない作戦を立案し実施した当時の陸海軍指導者たち。そういった者たちの責任の取り方はさまざまでしたが、責任をとることなく戦後に自身は特攻作戦に関係なかったとのうのうとしていた者たちもいたという事実。
これから先、戦争が避けられないことがあるかもしれません。そうなったときにロクでもない者が指導者でないことを願うばかりです。
最後に地図を載せておきます。興味のある方は訪れてみてください。
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参考にした書籍
このページの公開日:2012.02.04