旧帝国陸軍:海上挺進戦隊慰霊碑
3月28日に江田島の幸ノ浦にある海上挺進隊慰霊碑を訪れました。ここは戦時中、船舶特別幹部候補生第十訓練基地がおかれていた場所です。「陸軍で海上挺進隊? 船舶特別幹部?」と単語のつながりに疑問を感じる方もいらっしゃることと思われます。
海上挺進戦隊慰霊碑
こちらが海上挺進戦隊慰霊碑です。まずはいろいろ記すことなく、碑文をすべて載せます。
昭和19年戦局の劣勢を挽回すべく、船舶幹部候補生の少年を主体とし全陸軍より選抜せる下士官、将校の精鋭を以て編成された陸軍海上挺進戦隊は、250キロ爆雷を装備せるベニヤ製モーターボートにより一艇以て一船を屠るを任務とし、此処幸之浦の船舶練習部第10教育隊に於て昼夜を分かたぬ猛訓練に励み、第1戦隊以下30ケ戦隊が同年9月以降続々沖縄、比島、台湾への征途にのぼり、昭和20年1月比島リンガエン湾の特攻を初めとし同年3月以降の沖縄戦に至る迄壮烈鬼神も泣く肉迫攻撃を敢行しその任務を全うせし者或いは戦局の赴く所己むを得す挺身陸戦に転じ奮戦せし者を含め戦闘参加の勇士2288名中再び帰らざる隊員実に1636名の多さに達し挙げたる戦果的敵艦船数10隻撃沈、誠に赫々たるものありも当時は秘密部隊として全く世に発表されざるままに終れり。而して又第二次訓練再開されるや第31戦隊以下12ヶ戦隊が九州、四国、紀州の各地に展開し米軍の本土上陸に備え更に第41戦隊以下11ヶ戦隊は終戦時当地に在り原爆投下直後の広島市民の救出残骸の整理に挺身活躍同年10月艇を焼き部隊を解散せり。此等教育期間中の殉職者も数10名に及び又各戦隊に配属されたる基地大隊も戦隊出撃後は陸戦に殉じ殆んど生還する得ず。その運命を共にせるものの如し。
祖国の為とは言え春秋に富む身を国に殉ぜし多数の若者の運命を想う時誠に痛惜の念に堪えず。ここにその霊を慰め後世に伝える為この碑を建立するものなり。
昭和42年12月3日
元教育隊隊長 斉藤義雄書
四式肉薄攻撃艇(秘匿名称「マルレ(○の中にレ)」)の攻撃部隊です。マルレは自動車エンジンを使ったベニヤ板製のモーターボート... 戦争を遂行するための物資が極度になくなっていたことからこういった兵器が開発されたわけでしょうが、その先に何を見ていたのだろうと考えずにはいられません。
海軍では震洋という自動車エンジンを備えたモーターボートの特攻兵器がありましたが、四式肉薄攻撃艇はその陸軍版です。しかし、四式肉薄攻撃艇は特攻兵器として計画されたものではなく、夜間に敵艦船に肉薄して爆雷を投下するものとされていました。もっとも、現実的にはそういった使い方はできず、特攻兵器となってしまったようですが。
海上挺進戦隊慰霊碑に供えられている大発の錨です。陸軍であってもこういった大発などをもっていたというのは、やはり海に囲まれた日本の陸軍だったからでしょうか。
船舶特別幹部候補生第十訓練基地の石積み突堤です。突端のコンクリート部分は戦後に付け足されたものとのこと。戦局はすでに劣勢、ベニヤ製モーターボートで実質的には特攻を行なう部隊での訓練。そういったことはまったく知らされてはいない状況だったのかもしれませんが、陸軍士官学校出身者はともかく、少年兵はどういった心境で訓練を受けていたのでしょうか。
連合軍の本土上陸前に日本は降伏。歴史に「もし」はいけませんが、もし連合軍の本土上陸作戦が実施されていたら、本土各地に配備された特攻兵器を使った攻撃でどれだけの死者がでていたのだろうと思います。そして「もし」そんなことになっていたら、今の日本はどういった国になっていたのだろう。人それぞれの考えはあると思いますが、特攻で散っていった方々がいたという事実は知っておく必要があるのではないでしょうか。
参考にした書籍
このページの公開日:2010.04.10