旧帝国陸軍:広島の旧陸軍三支廠
広島城の大本営跡を観に行ったときに記した陸軍三支廠をまわってきました。地図で確認したときにも「近いな」と感じたのですが、実際にまわってみると本当に近いです。こういった施設が広島市にあったということを思うと、やはり広島は軍都だったんだなってあらためて認識します。
旧陸軍糧秣支廠
最初に出かけたのは旧陸軍糧秣支廠。現在は郷土資料館となっています。道に面した入口にはその説明が書かれています。
旧陸軍糧秣支廠建物の説明
現在広島市郷土資料館として利用されているこの建物は、明治44年(1911年)竣工の旧陸軍糧秣廠のかんづめ工場を改修したもので、外壁は当時のものがそのまま保存されています。市内に残る他の明治時代のれんが建築に比べ、外壁の控壁や庇部分の細かな造形に工夫が見られ、重厚な美しさを感じさせます。れんがは、現在のものよりやや大きめで、すべて国産のものを用いており、長辺と短辺を交互に積む「オランダ積み」で積まれています。また、屋根は今回の改修で鉄板を銅板に改めているものの、当時の「瓦棒葺」の工法で復元されているなど明治時代の洋風れんが建築を理解するうえで貴重なものです。
明治27年(1894年)の日清戦争の際、広島は、同年の山陽鉄道の開通や宇品港の存在などを背景に、大陸への派兵基地として重要な役割を果たしました。これを直接のきっかけに、広島は軍事都市としての性格を強め、明治31年(1898年)の軍用水道を手始めに、市内に数多くの軍施設が建設されました。この建物もそのうちのひとつです。
また、現在の建物中央部には、原爆の風圧によって曲げられたものと思われる2本の鉄骨が保存されています。原爆投下直後には被災者の臨時収容施設にもなっていたこの建物は、被爆の歴史を語る貴重な証人でもあります。
昭和62年3月 広島市教育委員会
上は書かれている説明です。糧秣廠というのは兵士の食糧、軍馬の餌(これらを糧秣といいます)を製造・保管し、補給する施設です。ウィキペディアによると、本廠が東京深川に置かれ、支廠は広島のほかには国内では札幌と大阪に置かれたそうです。
旧陸軍糧秣支廠 道側入口
旧陸軍糧秣支廠 公園側入口
説明にもあるように、とても重厚な建物です。現代の建物ではなかなか感じることができないものだと思います。私がはじめてみたのはもう数年前のことになるのですが、「どうしてこんな建物がこの場所に?」と感じたのですが、こういった歴史があったからなんだなと。
旧陸軍糧秣支廠倉庫跡
旧陸軍糧秣支廠から海のほうへ向かって糧秣支廠倉庫跡です。跡といっても、モニュメントがあるだけなのですが(苦笑)・・・ 画像を見ていただくと、左下のほうに戦後に倉庫として使われていたときの写真と説明が書かれています。
陸軍糧秣支廠は、戦時において必要な兵隊の食糧や軍馬の飼料を調達、補給するために設置されました。1894(明治27)年に日清戦争が始まると、当時山陽鉄道の西端であった広島駅とここ宇品を結ぶ軍用鉄道を二週間あまりの突貫工事により完成させ、宇品港は第二次世界大戦が終結するまで陸軍の海外への輸送基地となりました。この倉庫は、1910(明治43)年頃、軍需物資を保管するため、宇品駅のプラットフォームに沿ってレンガ造りで建てられました。1945(昭和20)年8月6日の原爆による被害は、爆心地から離れていたため、軽微にとどまり、傷ついた大勢の被爆者はこの付近の陸軍の関連施設に収容され、手当てを受けました。戦後、日本通運株式会社に払い下げられ倉庫として利用されてきましたが、1997(平成9)年、広島南道路の整備にあたり、被爆建物として歴史を後世に伝えるため、その一部をモニュメントとして保存するものです。
(旧広島陸軍糧秣支廠 1985(昭和60)年4月 井手三千男氏撮影 日本通運株式会社 寄贈)
この糧秣支廠倉庫跡のモニュメントはちょうど広島高速3号線宇品料金所の近くにあるのですが、何かはもちろん、存在すら気付いていない人も少なくないのではないかって感じます(苦笑)。
旧陸軍被服支廠
続いては少し陸へ戻って旧陸軍被服支廠へ。被服支廠というのは名前から想像できるように兵士が使う被服を製造・保管、補給する施設です。
場所はちょうど広島県立工業高校隣になるのですが、こんな建物があるなんて・・・ 本当に驚きました。ちなみにこの建物、レンガ造りのように見えますが、RC造りだそうです(驚)。また、壁の厚さが60cm(!)もあり、被爆時に倒壊することもありませんでした。そんな歴史のある建物なのですが、まわりを見た限りでは積極的に保存されているというわけでもなさそうです。閉ざされていた門には管理者は県だと書かれていたと思うのですが、どうするのでしょう?
旧陸軍兵器支廠跡
最後に兵器支廠跡を。といっても、こちらも糧秣支廠倉庫跡と同様にモニュメントがあるだけとなっています。兵器支廠はやはり名前のとおり、武器の補給を行なう施設です。
明治27年に勃発した日清戦争をきっかけに広島は軍事都市としての性格を強め、市内に多くの軍事施設が設置され、この地にも兵器支廠(軍用倉庫)として11棟の2階建レンガ造群などが建設されました。昭和20年8月6日、原爆に被災したものの、比治山の陰で建物に大きな被害はなく、臨時救護所として罹災者の救護が行われました。戦後は広島県庁などに、その後、広島大学医学部に移管されましたが、施設整備の拡大に伴って次々に姿を消しました。最後の1棟となった11号館は、医学部創立30周年を記念して設置された医学資料館などとして利用され続けて来ましたが、新病棟の整備に伴い平成11年3月に取り壊されました。
この建物が大正初期の建造物であり、広島市被爆建物等保存・継承建物であったことから、新しく医学資料館を建設するにあたり、玄関を中心としたレンガ壁及びほとんどの石材は11号館に使用されていたものを利用し、外観もほぼ完全な形で復元しました。
という感じで、広島市内にある旧陸軍三支廠をまわってみました。最初にも書きましたが、広島は軍都だったということがよくわかります。最後にGoogle Mapを使って今回回ったところのだいたいの位置を記しておきます。興味のある方は訪れてみてはいかがでしょうか?
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このページの公開日:2009.10.10