旧帝国陸軍:能美島の三高山堡塁跡
江田島市の西能美島にある三高山堡塁跡を観に行ってきました。三高山堡塁は広島湾要塞の一部として築かれました。現在は砲台山森林公園として整備されています。下画像は堡塁跡に建っている概要図です。この図にあるように、三高山堡塁には「28cm榴弾砲」が6門据え付けれられました。その横に「ピッカーズ式9連加砲」も書かれていますが、実際には据え付けられた記録はなく、間違いのようです(ちなみにその場所は観測所です)。

戦争遺構:三高山堡塁跡
「広島湾要塞」、「堡塁」とは?
いきなり「広島湾要塞」「堡塁(ほうるい / ほるい)」と、聞き慣れない言葉ではじまりましたが、「広島湾要塞とは?」という話をカンタンに・・・ 広島湾要塞は、明治時代にロシアとの戦争を前にして日本各地に築かれた要塞のひとつです。鎮守府のある呉や広島の防御(海上封鎖)のために築かれました。
また「堡塁(ほうるい / ほるい)」とは、goo辞書によると「土塁・石塁などを巡らした堅固な砦」とのこと。砲台には砦がなく、堡塁には砦があるという感じでしょうか?
今回観に行った三高山堡塁は、広島湾要塞を形成する堡塁のひとつです。三高山堡塁のほかにも早瀬や高烏、岸根、宮島の鷹ノ巣・・・など、海峡を塞ぐように堡塁および砲台が築かれ、広島湾要塞を形成していました。
28cm榴弾砲砲座

こちらが28cm榴弾砲が設置されていた砲座。このように2門ずつ設置されており、3ヶ所で計6問の28cm榴弾砲が海上からの侵入に目を光らせていました。
ところで広島湾要塞は、上記のように対ロシア戦争を意識してつくられました。しかし、日本海海戦における帝國海軍の勝利にあるようにロシア艦隊が瀬戸内海にやってくるようなことはありませんでした。そういったこともあり、広島湾要塞は1926年に廃止されました。
砲側庫

こちらは砲側庫。砲側庫というのは、漢字からわかるように「砲台の側にある(倉)庫」です。三高山堡塁でも「砲台」→「砲側庫」→「砲台」→「砲側庫」・・・ と並んでいました。普段から弾を置いているわけではなく、実際に砲台から弾を発射するようなときに弾薬を置いておく場所です。
弾薬庫

こちらは砲側庫。砲側庫というのは、漢字からわかるように「砲台の側にある(倉)庫」です。三高山堡塁でも「砲台」→「砲側庫」→「砲台」→「砲側庫」・・・ と並んでいました。普段から弾を置いているわけではなく、実際に砲台から弾を発射するようなときに弾薬を置いておく場所です。
観測所

弾薬庫の画像に写っている階段の上にあるのがこの観測所です。三高山堡塁には、一列に並んだ砲台の両端に2ヶ所あります。
掩蔽棲息部

こちらが掩蔽棲息部。「掩蔽棲息部」、カンタンに記してしまえば敵の砲弾による攻撃から身を守るところといった感じでしょうか。画像左の階段をのぼっていくと、上に載せた28cm榴弾砲砲座があります。位置関係がわかるでしょうか?
兵舎とトイレ


こちらは兵舎とトイレ(便所)跡です。
これまでの写真でお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、「砲台山森林公園として整備されている」といっても、草ボーボーです(苦笑)。三高山堡塁は北と南に砲台があるのですが南側はこんなものではありませんでした(苦笑^2)。
意図があってこの状態ならばそれも構いませんが、ほっておかれているだけだと正直「なんだかなー」と感じずにはいられませんでした。まぁ、この時期だけに植物の成長もハンパではないのかもしれませんが(汗)。もっとも、こういう環境だからたぬきが普通にいたりしたのかも(^^;。
おまけ:公園から瀬戸内海を臨む

砲台山森林公園から瀬戸内海を臨む眺めを。写っているのは三高港方向となります。雲が多いのは残念でしたが、とてもよい眺めでした(^-^)。他の方向への眺めも素晴らしいもので、青空のときにまた見てみたいと思います。江田島の旧海軍兵学校(現海上自衛隊第1術科学校)も行ってみたいですしね。
堡塁を知った書籍
私が堡塁を知った書籍です。
このページの公開日:2008.10.14