加藤友三郎の像

8月12日、ひろしまスタジアムパークにある加藤友三郎(敬称略)の像を観に出かけました。夏休み、しかもお盆ということで人が多くなる前の朝7時過ぎに訪れました(笑)。

加藤友三郎の像 広島スタジアムパーク 2024年8月12日

しばらくぶりに戻ってきた像

この加藤友三郎の像は2008(平成20)年に広島中央公園に再建されたものです。"再建"というのは、もともと比治山に加藤友三郎の像があったのですが、太平洋戦争中の金属供出で台座のみとなってしまいました。その後、2008年に"再建"されたのがこの像です。

加藤友三郎の像 広島スタジアムパーク 2024年8月12日

そしてこの像もサッカースタジアム建設のために撤去されていました。当時広島市に問い合わせたところ、サッカースタジアム建設後に設置されることを教えて頂きました。また、2022年に加藤友三郎のことを記したときに加藤友三郎顕彰会副理事長の小橋透雄さまから令和6年7月頃にお披露目予定と教えていただいたので気にしていたのです。

ひろしまグランドパークが8月1日にグランドオープンしたことを知り、SNSなどを見てみると無事に(?)戻ってきたようです。"これは見に行かないと"ということで、訪れた次第。

加藤友三郎の像 碑文

碑文を記します。

加藤友三郎 功績碑

加藤友三郎は、文久元(1861)年2月22日、広島藩士加藤七郎兵衛の三男として現在の広島市中区大手町で生まれた。修道学園の前身である藩校や海軍兵学校などに学び海軍軍人となり、その後海軍次官、海軍大臣などを務める。
第一次世界大戦後、わが国は周辺防備のため海軍の増強を図ることの必要性から、大幅な軍備の再編を進めたが、これにより国家予算に占める国防費は異常な事態となって財政は破綻の危機に至り、軍事費を削減してこの建て直しが迫られることとなった。
欧米諸国も同様の状態に至り、国際世論も軍備の縮小が叫ばれる情勢にあった。このような状況のもとで大正10(1921)年11月から翌年2月、ワシントンにおいて主要9か国による「海軍軍縮会議」が開催され、加藤友三郎はこの会議に首席全権として出席、アメリカから示された我が国の海軍軍備を対米英比6割に削減する提案に対して、当時の国際情勢と国益を踏まえ、国際協調による平和維持の観点から妥当な線と判断し、軍部の強い反対を抑えてこの提案を受け入れ諸条約に調印した。このとき軍部の強硬派に対して「国防は軍人の専有物ではない。国防は国家総動員の上に築かれなければならぬ。言い換えれば、民間工業力や貿易を盛んにして、国富の裏打ちがなければ国防力は高まらぬ」と述べている。
大正11(1922)年6月、軍縮会議後の施策推進適任者として推挙され、第21代の内閣総理大臣に就任。軍事予算の削減、陸海軍の兵員艦船削減の英断を下し、隣国との協調にも配慮する諸政策を断行して「ワシントン軍縮会議」の精神を忠実に履行したのである。軍事予算の削減分を教育や民生の充実に回したほか、国民生活に直結する諸政策をも煤円るなどの業績を残した。
総理大臣在任中の大正12(1923)年8月24日病死、享年63。

内閣総理大臣加藤友三郎の国際協調による世界平和の具現を称え、没後85周年にあたり銅像を復元した
平成20(2008)年」8月24日
加藤友三郎銅像復元委員会 会長 碓井静照

加藤友三郎については2022年に加藤友三郎のことを記したページを読んでいただければと思います。

もうひとつ説明板がありました。この場所に戻ってきて追加されたようです。

加藤友三郎とサッカーとの縁

加藤友三郎は明治6(1873)年10月 海軍兵学寮に第七期生として入学しました。 その3か月前に英国からアーチボルド・ルシアス・ダグラス海軍少佐以下34人の顧問団が海軍兵学寮の教育内容充実を図るために着任しました。
同年8月から125人の日本人学生に海軍士官養成の指導を始め、その一環として学生たちの体力増強を図るためにクリケットやフットボールなどの英国式スポーツも教育に取り入れました。
これが日本人が最初にフットボールと触れ合った記録と確認されています。
当時の海軍兵学寮の在学生・卒業名簿には他に広島県出身者が見当たらないことから加藤友三郎は広島県人で、わが国初の現在のサッカーにつながるフットボールを楽しんだのです。
このようにサッカーと縁がある加藤友三郎の銅像から指呼の間にサッカースタジアムが新しく建設されたということに、はかり知れないつながりを感じています。

令和6(2024)年8月
特定非営利活動法人 加藤友三郎顕彰会
理事長 土肥博雄

加藤友三郎とサッカーにこんなつながりがあるとはっ(驚)!! 加藤友三郎がサッカー(フットボール)が好きだったかどうかは定かではありませんが、立派なサッカースタジアムをみて学生だった頃を思い出しているかもしれません。

加藤友三郎像とサッカースタジアム

このページを作成している数日のあいだに、岸田総理大臣が次の自民党総裁選挙に立候補しない意向を表明しました。自民党が変わることをしっかり示すことが必要。もっともわかりやすい一歩が自身が身を引くということのようです。たしかにわかりやすいといえばわかりやすい。

加藤友三郎がそんな岸田総理大臣の会見を見ていたら、どんなことを思っただろうな。

岸田総理大臣、次回自民党総裁選挙に立候補せず

もうちょっとだけ岸田総理大臣のことを。人気を落とした理由、統一教会とかありますが、なんといっても一番の理由は"政治とカネ"問題がすっきりさせなかったためでしょう。国民がもっともわかりやすい(だから納得もする)のは、違反した議員をバッタバッタと切ってしまうことだったのにそれをしなかった。何もしなかったわけではないですが、いろんなところから突っ込まれ放題な決まりゴトを作っただけでは、そりゃそっぽを向かれます(苦笑)。

個人的には何もしなかったとは思っていません。敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有、防衛予算増額といった防衛力の強化、QUADや日米フィリピン首脳会合開催、(必要かどうかは別として)韓国との関係も改善など、安保や外交では実績を残していると思います。

次の自民党総裁(きっと次の総理大臣)が誰になるかはわかりませんが、日本という国のために全力で働いてくれる方になってほしいですね。