逓信省 装荷線輪装置用ケーブルハット(広島県大竹市)

三連休の真ん中7月16日は大竹市にケーブルハットを観に出かけました… って、このケーブルハットの存在を知ってはじめて"ケーブルハット"という名を認識したのですが(^^;。

装荷線輪装置用ケーブルハット

ケーブルハットとは

ケーブルハットという建物がどういった役目をもっていたのか、それは過去の通信技術を振り返ってみる必要があります。

日本での市外電話サービスは1890(明治23)年東京-横浜間にはじまりました。当時は長距離の電話回線に裸線を使っていましたが、1922(大正11)年東京-岡山間800kmを装荷ケーブルを使ったものにすることを決定し、工事に着手します。

装荷ケーブルを流れる音声信号は距離とともに減衰します。そのため信号を増幅するための中継局を80~120kmごとに設置し、中継局間は減衰を小さくするために1.83㎞ごとに装荷線輪という装置を施しました。

ケーブルハット

日本では装荷線輪装置の設置には架空式として支障がない場所は架空式に、地下(マンホール)式が得策と考えられたときは地下式を採用することとしました。ちなみに東京神戸間は架空式と地下式はそれぞれ2分の1ずつ施工されたそうです。"地下式"が難しい場所に"ケーブルハット"が築かれました。

昭和15年度末予定 重要市外電話「ケーブル」路線図

東京-神戸間は1928(昭和3)年に開通、1930(昭和5)年に岡山、1934(昭和9)年度末に広島、下関・門司・福岡を経て久留米・武雄迄は1935(昭和10)年度末に開通しました。上図は逓信省工務局による東京神戸間長距離電話「ケーブル」工事の概要(昭和3年11月)に載っている昭和15年度末予定 重要市外電話「ケーブル」路線図です。

大竹のケーブルハットは1934(昭和9)年から1935(昭和10)年の間に築かれたということかな?

場所は西国街道苦の坂峠

ケーブルハットが何をするためのものかわかったところで(?)、大竹市のケーブルハットに戻ります。大竹市に残るケーブルハットはページ最初の写真を見てわかる向きがいるかどうかわかりませんが、西国街道にあります。場所は苦の坂峠のそばです。

大竹市に残るケーブルハット

ツマが写っていますね(^^;。私の目的がこのよくわからない構築物とわかり呆れたツマ… そもそも竹林の中にある道という場所にひいていますが(汗)、上にナニカ看板があるのを見つけて上へ^2(^^;。

私はケーブルハット(^-^)。逓信省のモノということで〒がついています。

大竹市に残るケーブルハット

“東京神戸間長距離電話「ケーブル」工事の概要"にあったケーブルハットとはちょっと違います。使われている装荷ケーブルによって装荷線輪装置が異なるので、少し違っているのはそのせいなのか、仕様を満たせば細かいことは自由だったりするとか。

特にわからないのが左右に空いている穴。最初、この穴を通じてケーブルがケーブルハット内に入っているのかなと思ったのですが、ケーブルは地下を通っているので違います。どういった目的で穴が開いているのかな。

大竹市に残るケーブルハット

わからないといえば、このケーブルハット内にどのように装荷線輪装置が取り付けられていたのかということ。架空式で使われている装荷線輪装置用櫓では写真を見つけることができたのですが、ケーブルハットについては見つけることができませんでした。内部壁面にはボルトのようなものが残っています。ナニカシラ取り付けてあったのだろうことは想像できるのですが。

大竹市の装荷線輪装置用ケーブルハット

日本における初期の長距離電話設備の遺産であるケーブルハット、日本各地にいくつか残っているようですが特に保存に向けての活動はされていないようです。ちなみに装荷線輪装置用櫓については愛知県豊川市のものが登録有形文化財となっています。

“電話というもので空間が離れた者同士が話をできる"ということに素晴らしさを感じ大学の研究室は通信工学を選択、就職先は当時日本で最もNTTの専用線を契約していると言われていた会社という私。そんな私なのでかなりベクトルが偏っていますが、ケーブルハットも登録有形文化財に指定されて残ってくれることを願うばかりです。

参考にした書籍など