旧帝国海軍:冠崎作業場・地下工場

12月11日、呉市冠崎にある戦争遺構を訪れました。この冠崎の戦争遺構... 2011年2月に広海軍工廠・第11海軍航空廠の遺構を訪れたとき、そして同年5月に呉海軍工廠の長郷地下工場を訪れたときにもその場所がわかりませんでした(汗)。いつの頃からか忘れていたのですが、掲示板で場所の情報をいただき、再度アジア歴史資料センターの資料を調べてやっとたどり着くことができました(嬉)。

JACAR Ref.C08010964900 呉海軍工廠引渡目録 4/8(防衛省防衛研究所)より

回天二型の作業場 ...だったかもしれません

最初の画像がアジア歴史資料センターの資料(Ref.C08010964900)にあった冠崎作業場の図です。この資料、別件を調べているときに見たことがあったのに気付きませんでした(汗)。いつもはアジア歴史資料センターの資料をそのまま載せることはないのですが、今回は残っている遺構が少なく写真だけではよくわからないので図を引用させていただきました。ちなみに最初の画像を別タブなどで表示させると縦横が2倍のサイズで表示することができます(Retinaディスプレイ対応のためにすべての写真でそんなことをしてます)。詳しく見たい方は別タブ(別Windows)で画像のみ表示してみてください。

その図に番号を追記しました。その番号に沿って紹介します。まずは①です。

冠崎地下工場あたり?

目の前には畑などがありその奥に小さな山があります。この山に地下工場があったようです。図をみると、当時はこの畑あたりになんらかの建物があったみたい。この建物のところだけ何も記されていないのがちょっと気になります。地下工場の入口は... この場所からは当然ながら何もわかりません(苦笑)。

小さな港の方へ歩いていきます。

危険物件格納所と乙液格納所

②と③です。②は「危険物件格納所」、③は「乙液格納所」とあります。近寄ってみます。

危険物件格納所

こちらが②の「危険物件格納所」。あまりにも奥行がないように感じます。前部分が崩落してしまったのでしょうか? というか、危険物件格納所って、何を格納していたのだろう(^^;?

乙液格納所

そして③の「乙液格納所」。こちらは木々が茂っていてわかりにくいのですが、レンガで造られているのがわかります。ただ、入口であろうところはコンクリで閉められてしまっています。

④は「甲液格納所」とあるのですが、こちらについてはまったくわかりませんでした。

さて、この冠崎作業場・地下工場... 長郷地下工場もそうですが、何を作っていた工場なのかわかりません(≒アジア歴史資料センターの資料に見つけることができません)。ネットで探してみると、この冠崎の地下工場で回天を作っていたという新聞記事があり、その記事発表後間もなく地下工場の入口が閉じられたという話を見つけることができますが、その新聞記事には辿りつくことができませんでした。

そんな新聞記事があったことを思いながら作業場の図を眺めてみます。たしかに調整場があり(魚雷や回天関係の施設でよくみかける施設です)、海そばの40トン起重機まで軌道が延びており、魚雷あるいは回天に関する施設だった可能性はありそう。

そして回天だったとすれば、それは二型だったかもしれません。回天二型は六号機械というエンジンにロケット燃料を使うものです。六号機械は呉海軍工廠と三菱重工長崎兵器研究所で開発・実験が行なわれたものの、開発は難航。加えてロケット燃料のための過酸化水素の生産量が伸びず、終戦近くになって陸海軍共同で開発がすすめられたロケット戦闘機「秋水」のみに使われることとなり、二型は昭和20年3月に開発が中止されました。

なぜここ冠崎で作られていたのがその二型だと思うのか。それは甲液格納所と乙液格納所の存在、そして調整場右のほうにある燃焼試験場の存在から。回天二型がロケット燃料として使っていたのが前述の過酸化水素と水化ヒドラジン。ロケット戦闘機「秋水」の燃料で前者を甲液、後者を乙液と呼んでいました。つまり甲液格納所と乙液格納所は回天二型のための燃料を格納し、この2つの燃料を使った試験を燃焼試験場で行なっていた... なんてことも考えてもいいのではないかと。

ただ、前述のように資料は見つかりません。そのため、あくまでおじさんの想像でしかないのですが... こうやって想いを巡らすのも楽しいということで(笑)。

参考にした書籍など

このページの公開日:2016.12.22

  

コンテンツメモ

  • 訪問日:2016.12.11
  • 場所:広島県呉市
  • X-T10 + XF18-55mmF2.8-4 R LM OIS

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