旧帝国海軍:巡洋艦「青葉」終焉之地碑_2016年
8月20日は呉海軍工廠の冠崎地下工場跡を探しに出かけました。2011年2月、5月と2度チャレンジして見つけることができなかったのですが、今回はアジア歴史資料センターで情報を見つけて3度目のチャレンジを(^-^)。しかし季節柄、草ボーボーで何も見つけることができず... 違う季節になったら再度出かけてみようと思ったのでした。
巡洋艦「青葉」終焉之地碑
と、タイトルと違う話で前置きが長くなりましたが、その帰りに呉の警固屋にある巡洋艦「青葉」終焉之地碑を訪れました。ここを訪れるのは2012年に建立されて除幕式が行われた直後に出かけて以来。音戸バイパスができてからはこの碑の前を通ることもなくなっていたので、久しぶりの訪問となりました。
今回、この「巡洋艦「青葉」終焉之地碑」を久しぶりに訪れたのは、7月28日に乗組員を慰霊し、語り継ぐ式典が行なわれたというニュースを思い出したから。7月28日はすでに防空砲台となっていた青葉が空襲により大破・着底したその日です。
今回は2012年に訪れたときには記していなかった青葉の戦績を記しておこうと思います。碑にある戦歴表から記します。この戦歴は太平洋戦争からのものですが、昭和2年に建造されている青葉は日中戦争にも参加しています。
- 1940(昭和15)
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11月15日:第一艦隊第六戦隊旗艦となる
- 1941(昭和16)
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11月30日:太平洋戦争開戦のため柱島を出港
12月12日:グアム島攻略作戦
12月22日:ウェーキ島攻略作戦 - 1942(昭和17)
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1月23日:ビスマルク攻略作戦
5月7日-9日:珊瑚海海戦
8月8日:第一次ソロモン海戦(ツラギ夜襲戦)
10月11日:サボ島沖夜戦 - 1943(昭和18)
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4月3日:カビエング泊地の遭難
11月25日:第一南遣艦隊第十六戦隊の旗艦 - 1944(昭和19)
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6月:印度洋作戦
10月23日-30日:比島沖海戦(マニラ沖遭難) - 1945(昭和20)
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7月24日-28日:瀬戸内海方面(呉軍港被空襲)
7月28日:艦載機の攻撃により後部切断着底
8月15日:終戦となり青葉終焉
この戦歴を見てわかるように、青葉はとても多くの海戦に参加しました。大破することも一度ならずありましたが、前型の古鷹型重巡洋艦2隻、青葉型2番艦衣笠が沈没した中、青葉は沈没することはなく終戦を迎えた(迎えることができた)のでした。
そんな青葉が(というか日本海軍が)大勝利した数少ない海戦が1942(昭和17)年8月の「第一次ソロモン海戦」。ガダルカナル島をめぐる戦いのひとつです。日本軍がガダルカナル島に飛行場を建設しているのを知った連合軍が奇襲をかけ、ガダルカナル島とツラギ島に上陸。日本軍は対応として第八艦隊旗艦鳥海と青葉を含む第六戦隊の重巡洋艦4隻、そして軽巡洋艦・駆逐艦を加えた計8隻で夜戦を決行します。日本軍が得意とする夜戦で連合軍重巡洋艦4隻撃沈、1隻大破を与えたのに対し、日本軍の損害は鳥海と青葉が被弾したのみで日本軍の一方的な大勝利となりました。青葉に航海士として海戦に参加した士官の方はこのときの砲雷戦の印象を次のように語っています。
不謹慎かもしれませんが、まるで隅田川花火大会でも見ているような美しさでした
しかし、この海戦では連合軍主力部隊は壊滅させたものの、本来の目的である「敵輸送船団攻撃」をすることはありませんでした。三川司令長官の戦場からの離脱命令に対し、鳥海の早川艦長が輸送船団を攻撃するために戦場への再突入を具申しましたが、受け入れられませんでした。再突入をしなかった理由、いくつか考えられていますが、有力なもののひとつとして上空支援がない状況下での敵空母艦載機による攻撃を恐れたというものがあります。
私はそれだけでなく、その奥には海軍反省会の資料にあるように海上決戦至上主義があったと感じます。「輸送船団(なんか)を攻撃するために、艦隊を危険にさらしてはいけない。すでに敵主力部隊は壊滅させたのだから」みたいな。のちのレイテ沖海戦で栗田艦隊がレイテ湾の敵輸送船団を目の前にしていわゆる「謎の反転」を行なったのも、敵空母の所在が不明だったとしても、やはりその奥底には同じ海上決戦至上主義があったのではないかと。
話が青葉からかなりそれてしまいました。
青葉は大勝利となった第一次ソロモン海戦の二か月後、1942(昭和17)年の「サボ島沖海戦」に出撃します。「第一次ソロモン海戦」と同じ夜戦でしたが、敵艦隊を味方輸送隊と誤認をしてしまい、青葉は艦橋に直撃弾を受けます。戦闘能力を喪失した青葉は戦場を離脱することはできたものの、五藤司令官を含む多くの戦死者を出したのでした。前述の航海士の方も艦橋に受けた直撃弾により足に重傷を負い、九死に一生を得ています。
大破した青葉は修理のために呉に回航されます。修理後、昭和18年、19年と修理と艦隊への編入を繰り返して多くの海戦に参加した青葉はレイテ沖海戦でも大破。呉に回航されますが、すでに物資の乏しくなっていた日本では他の損傷している大型艦同様に修理の目途もたたず、動くための燃料もなくそのまま放置されました。防空砲台となった青葉は4月20日に第四予備艦に、6月20日には特殊警備艦に指定されます。その後、7月24日および28日のハルゼー米第三艦隊第38任務部隊艦載機の呉軍港空襲により大破・着底し、その生涯を終えたのでした。
下の写真は昭和22年3月31日に米軍が撮った写真。
青葉が写っています。甲板の構造物はほぼ撤去されたあとのように見えます。ただ、Wikipediaをみると「1946(昭和21)年11月より播磨造船の手により解体された」とあります。青葉じゃないのかな? 場所と後部が切断されているような状態から考えると、青葉で間違いないと思うのですが。
参考にした書籍など
- [証言録]海軍反省会 / 戸高 一成(編) (PHP研究所)資料3 太平洋戦争の反省録
- 丸(2015年9月号) 日本海軍艦艇証言集 乗組員たちの太平洋戦争
- JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C12070511000、昭和20年1月~6月 秘海軍公報(防衛省防衛研究所 41ページから42ページ目
- JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C12070515300、自昭和20年1月 至昭和20年8月 秘海軍公報(防衛省防衛研究所 14ページ目
- 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
このページの公開日:2016.09.03