陸上自衛隊:海田市駐屯地 顕彰館
4月2日、海上自衛隊第1術科学校の一般公開の帰りに、陸上自衛隊海田駐屯地に立ち寄りました。海田市駐屯地、昨年の一般公開にも出かけたのですが、今年は顕彰館が公開されるということで「行かなければいけない」と。もちろん、桜もとてもキレイに咲いていて多くの宴が開催されていました(^-^)。

海田市駐屯地の顕彰館
海田市駐屯地の顕彰館... 以前より行ってみたい場所でした。しかし見学は平日のみ、しかもあらかじめ電話連絡しないといけないようでナカナカ敷居が高く(+_+。そのため諦めていたのですが、桜一般公開にあわせて顕彰館も公開されるということを知ったのです。やはり情報はマメに収集しないといけませんね(^-^)。

顕彰館には旧陸軍、広島の第五師団や広島陸軍幼年学校の資料などがあります。振り返ってみると、旧陸軍のこういった資料を見る機会ははじめてのように感じます。旧海軍であれば第一術科学校の教育参考館、大津島の回天記念館、周防大島の陸奥記念館、江田島の利根資料館... などたくさんあるのですが、旧陸軍は出かけたことあったかな? というか、陸軍関係のものはどこにあるんだろう?
話がそれました。顕彰館です。

手前が60式自走106ミリ無反動砲、奥にあるのが61式戦車です。その間にあるのがM42ダスター自走高射機関砲。M42ダスター自走高射機関砲はよく見えませんね(^^;。61式戦車は太平洋戦争後の初の国産戦車です。1961年に制式採用され、2000年までにすべて退役しました。
館内へ入ります。

館内全景です。思っていたよりも多くの方がいらっしゃいます。時間ごとに名物館長(?)さんがお話をしてくれるようなのですが、私たちが訪問したのはその隙間の時間でした(残念)... だったのですが、そんな時間のことは関係なくいろんなことを話していらっしゃいました(^-^)。この顕彰館にある資料で珍しいもののひとつ、と話されていたのが下写真の大きな紋章。

広島陸軍幼年学校の菊花御紋章です。昭和11年に広島陸軍幼年学校が再興されたときに製作され、学校のシンボルとして学校校舎の上に掲げられていたものです。この写真に写っているものについて記しましょう。
右側に写っているのが陸軍の軍服です。右から「三式軍衣袴」「九八式軍衣袴」「航空服」「昭五式将校マント」「三式将校外套」。菊花御紋章の右側が「軍楽将校正装」と「法務官正衣袴」です。そして左側が広島陸軍幼年学校の軍服。この展示されているこの幼年学校の軍服は、現存する唯一のものではないかということです。
そして珍しいものをもうひとつ。

村田銃です。日本軍が採用した最初の国産銃である「村田銃」、その名前を聞いたことはありましたが見たのははじめて(驚)。この村田銃(二十二年式村田連発銃)は明治天皇が1893(明治26)年にフェルディナント皇太子(当時のオーストリア=ハンガリー帝国)に贈ったものが、2014(平成26)年にウィーン市内の博物館地下倉庫で100年ぶりに発見されたそうです。

「見たのははじめて」という点では、「三八式歩兵銃」を見たのもはじめて(嬉)。とても有名な銃ですが、これまで見たことがなかった私です。そして完全な偏見ですが、三八式歩兵銃というと先に剣をつけて最後の突撃を行なう姿を想像してしまいます...
名物館長(?)さんがいろいろとコメントされていたのがこちら (他にもいろいろコメントされていましたが(^^;) 。

出陣(特攻?)する将校へ香椎浩平中将が記した書です。これが書かれたのは終戦も近い頃だそうです。ニ・ニ六事件で失脚した香椎浩平中将が終戦も近い頃にこういった書を記すということはどういうことか、何を意味するのかなんてことを話されていました。ニ・ニ六事件ではクロ、限りなくクロに近い灰色といったことも話されていたような気が...
香椎中将のこと以外もホントにいろいろ話されてました。どれだけの方がなんとなくでも内容がわかったのか不明ですが、あれだけ好き放題(?)話して大丈夫なのだろうかと感じたのは私だけではないはず(^^(^^;。そして、もっといろんな話を聞いてみたいと思ったのも私だけではないはず(^^(^^;。
気になっていた顕彰館、見ることができてよかったです(^-^)。機会があったら、また訪問させていただきたいですね。
このページの公開日:2016.04.23