旧帝国海軍:光海軍工廠
12月最初の週末、5日に山口県光市を訪れました。目的は光海軍工廠の遺構を観るため。2009年に一度出かけたことがあるのですが、「参考した書籍など」に記した光市の広報誌にある特集を読んで再びでかけたくなり、6年ぶりの訪問です。
前回訪問時に見ることがなかった光海軍工廠の遺構
最初に記したように、光海軍工廠の遺構を訪ねるのは6年ぶりのこと。前回訪れたのは2009年10月でした。最初は光市文化センター。この建物自体は海軍工廠の遺構というわけではありませんが、当時の物などが展示物として公開されています。前回も訪れた場所なのですが、当時はなかった展示物がありました。
最初に光海軍工廠の簡単な紹介を。上写真内にある"光海軍工廠と光市"について記します。
光海軍工廠と光市
第二次世界大戦以前、海軍内部において、昭和20年頃になれば全面的な世界大戦が起こるものと考えられていた。
そこで、海軍では軍備を強化するため、新しい工廠の建設を決定し、港湾設備や工業用水の確保等の条件を満たす建設地として、島田、光井地区が選ばれた。
建設予定地内の住民(127戸)は、工廠建設という国策に反対することが許されず、用地買収におうじざるをえなかった。しかも買収価格は安く、耕作地を失った住民のなかには困難な転業を余儀なくされた者もいた。
こうして光市は工廠建設決定を機に農村から、一躍人口30万人の大都市を目指すこととなり、都市計画法の適用を受け、区画整理、道路建設など工廠の外郭都市としてのまちづくりが行われた。特に、幅22mの県道光駅室積線(現在の国道188号線)に代表される近代的道路網は注目された。
また、工廠の設置に伴い町村合併の機運が高まり、まず昭和14年に三井、浅江、島田、光井村が合併し周南町となり、工廠が光と命名されたのに伴い、光町に改名された。そして昭和18年には室積町と合併し光市が誕生した。
終戦後の工廠跡地へは企業が進出し、新しい工業都市として生まれ変わり、工廠の工員住宅や寄宿舎は、当時の住宅難に一役果たし、上水道施設はそのまま光市へ譲渡され、現在も使用されている。
2009年10月にはなかった展示品を紹介します。
1つ目は光海軍工廠の貨物取扱場の建屋で使われていた鉄骨ピースです。貨物取扱場は8月14日の空襲により骨組みだけとなりましたが、戦後も工場内の武道場で使われました。しかし、平成24年に老朽化のため解体されたそうです。この鉄骨ピースの多くの弾痕跡が、8月14日の大空襲の凄まじさを物語っています。
また、8月14日の大空襲で壊滅した光海軍工廠、その鋼材は戦後の物資不足の中で再建されたJR海田市駅そばに架かる九十九橋と平和記念公園そばに架かる本川橋で使われました。本川橋は私もよく利用しており、感じるものがあります。(参考:旧帝国海軍:光海軍工廠の廃材でつくられた橋)
2点目は回天の搭乗訓練用の頭部です。回天は頭部に1.5トン(!)もの爆薬をつけていますので、訓練時はこういったものを使っていたのですね。ちなみにこいつはレプリカではなく本物(驚)。終戦時に海岸に埋没処分されていたものを昭和48年10月に掘り起こして保管していたとのこと。2011年10月から展示されています。
ここからは海軍工廠まわりの遺構を観て回ります。今回出かけたのは、光市の広報誌の特集でこれらの遺構が紹介されていたのが理由です。最初に「壁」です。
工廠の敷地と住宅地を隔てる壁です。わざわざ高速道路を使ってこの壁を見に行くということを理解できない方も少なくないかもしれません。しかし、この壁は来るであろう戦争に備えて作った工廠、その後の戦争、終戦間際の大空襲、そして戦後の復興と平和の時間をずっとみてきているのです。そんなことを思うと、なんだか凄いなって感じるのです。
続いて工廠への引込み線跡です。
光駅から引込み線が敷設されていました。現在は水道管などが通っています。
そして配水池に続く階段。
"光海軍工廠と光市"の最後に記されてあった光市に譲渡された上水道施設のひとつ「清山配水池」に続く階段です。光海軍工廠があった頃、清山配水地は地下配水地が3基ありました。呉もそうですが、水道施設は戦後も活用されていますね。
下は1947(昭和22)年10月に米軍が撮影した写真です。
写真下部分が海軍工廠があった場所となります。左側の長丸で囲んでいるのが海軍工廠への引込み線、上の丸く囲んでいる部分が「清山配水地」です。終戦から2年経過... このページに載せたサイズではわかりづらいですが、海軍工廠があった場所は建物らしきものはごく僅かです。気になった方、ぜひ国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスで確認してみてください。
さいごに前回訪問時も載せましたが回天の碑。
光基地についての詳細は前回も記していますのでそちらに譲りますが、自らの意思、あるいは自らの意思とは反対の意思をもって決して生還することはない兵器で出撃した若者たちがいたということだけは忘れてはいけません。もし、そんな若者がいたことをしらない現代の若者がいるならば、ぜひとも知ってほしい。そして自分なりの考えを持ってほしいと思います。私は若い頃にそういった若者たちがいたことすら知らなかったので。
戦後、海軍工廠があった場世には現在の新日鉄住金と武田薬品が進出してきました。2009年に訪問したときには武田薬品工場内に海軍工廠当時の建物らしきものを見つけることができましたが、今回はなくなっていました。私企業の土地内にある建物であり、老朽化で解体するのは仕方がありませんが、そんな戦争があったということを伝える遺構がなくなっていくのはとても残念です。何とか保存できないのかな。
参考にした書籍など
- 光市広報 2015年8月25日号 Vol.260 特集 70年前のあの日を忘れない
- 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
このページの公開日:2015.12.08