安芸の国から

安芸の国に暮らすおじさんのお出かけ記録です

旧帝国陸軍:中国軍管区司令部 防空作戦室

2015年は戦後70周年ということで太平洋戦争に関する多くのイベントが行なわれているように感じます。その中のひとつが広島城の企画展「被爆70周年記念展示 広島城と陸軍 ─昭和20年8月6日防空作戦室─」。この企画展の関連イベントとして防空作戦室の公開が行なわれるということででかけてきました。

中国軍管区司令部防空作戦室と慰霊碑

公開された防空作戦室の内部

最初に防空作戦室の役割を。「防空」が示すとおり、防空監視哨からの目撃情報など飛行機の情報を一元的に集め判断し高射砲陣地や基地航空隊に迎撃命令を出します。また、空襲警報や警戒警報の発令・解除も行ないます。本土空襲が激しくなると、後者の役割が主となったそうです。

中国軍管区司令部防空作戦室に情報を伝える防空監視哨は昭和20年3月時点で広島県内に33ヶ所、中国5県には100ヶ所を越える防空監視哨がありました。2010年に出かけた世羅町の甲山防空監視哨も中国軍管区司令部防空作戦室に情報を伝えていた監視哨のひとつです。

内部に入る前に防空作戦室を上から。

中国軍管区司令部防空作戦室を上から

昨年行なわれた調査によると、防空作戦室の天井は厚さ75cmほどのコンクリートでできているらしい。これは100kg程度の爆弾が直接投下されても耐えるほどだそうです。

いよいよ防空作戦室内部へ。

防空作戦室(情報室)

こちらは情報室。各地の防空監視哨の情報が軍用通信の電話で送信され、この情報室などで受けます。この部屋では昭和20年4月に動員された比治山高等女学校3年の学徒(加えて一部女学校を卒業している軍属の人)が働いていました。以前より「なぜ比治山の学徒なんだろう?」と思ってたのですが、当時の比治山高等女学校を運営していたのが偕行社であり、多くの者が陸軍軍人の子供だったことから身元がしっかりしているということがあったようです。

となりの部屋への入口横に何か貼られています。

防空作戦室 内部の説明

タイトルは「旧中国軍管区司令部地下通信室」となっています。当時学徒動員されていた女学生からの聞き取りという但し書きはありますが、各部屋の名称が記されていました。この部屋が「情報室」隣が「通信室」、そして奥に「指揮連絡室」「防空作戦室」となっています。

情報室から防空作戦室のある奥を眺める

情報室から奥を眺めてみました。そして隣の通信室へ。

防空作戦室(通信室)

もっとも狭い部屋です。この通信室では陸軍直属の防空監視哨から送られてくる無線情報を受けており、陸軍の通信兵が担当していました。続いて指揮連絡室。

防空作戦室(指揮連絡室)

この部屋はちょっとだけ広いです。右に見えるのが防空作戦室なのですが、当時はここで動員されていた学徒たちは防空作戦室の中を見ることはできなかったようです。

この指揮連絡室は、その名から想像できるように防空作戦室から伝えられる空襲警報・警戒警報をこの部屋や情報室から連絡する役目をもっていました。

そして防空作戦室。

防空作戦室

防空作戦室には司令官や参謀たちが集まっている部屋。ここには防空監視哨からのすべての情報が集められ、空襲警報・警戒警報の発令および解除を判断します。8月6日の原子爆弾投下時は、ギリギリまで空襲警報はもちろん、警戒情報も出なかったそうです。そのこともあわせてでしょうか、天皇は原爆が投下されることを知っていた。第二総軍もそのことを知っていて警戒情報を出さなかっただけでなく、あらかじめ広島に多くの軍人を集めていたなんて話もありますね。

私がこの防空作戦室を訪れた8月30日は、イベントにあわせて公開される最終日ということもあって8月6日にこの防空作戦室で仕事をしていた比治山高等女学校の方から直接お話を聞くことができました。その方は戦後ずっと話すことはしていなかったが、長崎で被爆して語っている方から説得されて自身も話すようになったとのこと。

振り返るとこういった話を聞いたのははじめての私。本で読むものと、実際に声から知ることは全然違うんだなと感じました。不謹慎な記し方かもしれませんが、一度は実際に経験をしている方から聞いてみることをオススメします。

最後に、このイベントに関して問い合わせさせていただいたときにご丁寧な返事をいただいた広島市文化財団 広島城 主任のAさんには感謝^2です。

参考にした書籍など

コンテンツメモ

  • 訪問日:2015.08.30
  • 場所:広島市中区
  • 行程:広電電車
  • X30

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