安芸の国から

安芸の国に暮らすおじさんのお出かけ記録です

旧帝国海軍:大社基地

松江道(中国横断自動車道尾道松江線)が開通して広島から松江が近くなりました... って、今頃その話かと感もなきにしもあらずですが、そんな松江道を利用して出雲市斐川町にある海軍大社基地跡を訪れました。ずっと気になっていた戦争遺構なので、松江道に感謝です。

大社基地(第一新川基地)跡の滑走路 東側から望む

大社基地

大社基地は戦争末期の1945(昭和20)年3月から建設がはじまった航空基地です。6月末には完成し、実際に爆撃機「銀河」がこの大社基地から出撃しています。

大社基地(第一新川基地)跡の滑走路そばにある説明板

滑走路跡の西側に説明がありますので記します。

旧海軍大社基地関連施設群(陸上自衛隊出西訓練場跡)

ここは、太平洋戦争末期の昭和二十年(一九四五)三月から六月にかけて、旧簸川郡出西村地内の新川廃川地を中心に建設された旧海軍航空基地です。基地には滑走路のほか、誘導路、魚雷調整庫、爆弾格納庫など主要施設があり、今も山麓の谷あいに名残りを見ることができます。

滑走路の建設作業には、舞鶴海軍鎮守府から約一〇〇〇人の将兵や美保基地から飛行予科練習生(予科練)があたり、地元民や学童たちも動員されました。また各村の国民学校は宿舎にあてられていました。飛行機が実際に発着した舗装面は、延長一五〇〇メートル、幅六〇メートルでした。

飛行隊員として第五航空艦隊所属約八〇人が配属され、登場する飛行機は、最新鋭の陸上攻撃機「銀河」で、常時約五〇機が配備されていました。ここから「銀河」が終戦まで数度南方の海上へ飛び立っていきました。

「銀河」に装着された人間爆弾「桜花」も配備されていましたが、使われずに終戦となりました。

平成二十三年八月 斐川町

設営部隊は第338設営隊(富田技術大尉を指揮官として士官および曹長9名、下士官19名、兵408名 ※3月時点)。この設営隊に加え、説明にあるように美保航空部隊(前田隊)予科練の者や地元民、学童なども加わって4ヶ月弱という短期間で建設されました。第338設営隊の戦時日誌を参考に少し振り返ってみます。

第338設営隊 戦時日誌より

3月の新川航空基地の滑走路誘導路掩体等を急遽造成すべしという舞鶴鎮守府命令によりこの大社基地の建設が正式に決まります(※当初は新川基地と記されています。それがどういった理由かわかりませんが大社基地に)。3月は資材確保、輸送方針の決定、各部隊の進駐宿舎準備など、いわゆる準備作業のほかに測量などを行なったようです。ところで、3月の戦時日誌には一点気にとめておきたいところが。

それは設営実施方針にある"第二新川基地"。鎮守府命令には2つの新川基地の造成があったようです。その命令に対して設営実施方針では、第二新川基地の造成は第一基地と両立が不可能なのでまずは第一基地に全力を注ぐとあります。

4月に入ると滑走路や誘導路の作業がはじまります。作業は残業夜業の連続だったようですが、前田隊の奮闘努力により遅延なく進められていきました。

5月には滑走路コンクリート打の作業が完了。飛行機走行試験により運搬路不良箇所に舗装を実施します。車輪格納所や燃料格納所なども完成していきました。また、5月10日には誘導路や退避壕の追加工事が令達されます。

大社基地(第一新川基地)跡の滑走路 西側から望む

前田隊の奮闘努力で作られた滑走路の現在です。ここから銀河が戦地に向けて飛び立っていたのでしょう。なお、大社基地の建設にあたった予科練の者たちの多くはこの後、各地の特攻基地や本土決戦に向けての基地に向かっていきました。

そして6月には遂に基地隊・航空部隊が進出してきました。作戦経過概要によると現任務に加えて第二新川基地の予定地に特攻基地及特攻機兵器格納所新設の新任務を受けます。3月の戦時日誌にあった"第二新川基地"ですが、この記載から想像する限り、第二新川基地について当初は特攻機専用とは考えていなかったということでしょうか? また、この頃になると飛行機も進出してきており、補修作業などもあったようです。

最後に7月。この月の主要工事は既設航空基地(直江基地と記されています)の整備強化と特攻基地及特攻機桜花の格納とあります。このうち第338設営隊の主任務分、既設航空基地の機能強化と桜花掩体30機分新設については前田隊の協力により期日までに完了とのことです。また、作戦基地となったことで飛行機出撃待機所の要望があがり、これについては約2日半で22機分完成させています。

7月の戦時日誌の最後にこの特攻基地整備に関する命令が記されています。ここには桜花40機分の掩体のほかに中練20機分も記されています。この中練分や滑走路については第3311設営隊が担当したと思われるのですが、第3311設営隊については戦時日誌を見つけることができませんでした。

戦後

引渡目録をみると、終戦時に大社には銀河11型30機(良品15、不良品15)、銀河16型12機(同8、同4)、96式陸攻とキ67が1機ずつ基地周辺の掩体にあったようです。桜花については主翼や尾翼、胴体などの部品がさまざまな場所にありました。

大社基地(第一新川基地)跡 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスから USA-R514-4-49の一部

上写真は戦後に撮られた大社基地跡が写った写真。滑走路のあとがわかります。ここが今回訪れて写真も載せたものです。そして下の写真が上写真の東側となります。

大社基地(第一新川基地)跡 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスから USA-R514-4-45の一部

引渡目録の最後に大社基地の要図があるのですが、そこで記されている小型機用の応急滑走路(幅30m、長さ600m)というものがこの写真の右部分の一部。600mという長さは「国安牧場」と同じものであり、この応急滑走路と記されているところが第338設営隊戦時日誌にある特攻基地なのでしょうか。

この大社基地跡のことを知ってから数年経ちます。これまでに訪れた方々のページを読んでいたのですが、今回出かけてみると以前と比較して滑走路部分に建物がたっていることに気がつきました。こういった滑走路とわかるような感じで見ることができる時間は多くないのかもしれません。気になった方、いまのうちに出かけてみてはいかがでしょう?

参考にした書籍など

このページの公開日:2014.10.30

コンテンツメモ

  • 訪問日:2014.10.11
  • 場所:島根県出雲市
  • 行程:中国道 - 松江道
  • X-M1 + XC 16-50mm F3.5-5.6 OIS

サイトマップ

ブログ

掲示板

Copyright© webmaster@安芸の国から All rights reserved.   | このサイトについて | お問い合わせ |