安芸の国から

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旧帝国海軍:戦艦伊勢日向 浮揚解撤記念碑

9月6日、呉市音戸町坪井にある戦艦伊勢・日向の浮揚解撤記念碑を訪れました。呉軍港空襲により呉沖に着底した戦艦伊勢・日向を浮揚・解撤した会社が建立した記念碑です。

戦艦伊勢・日向 浮揚解撤記念碑

超弩級戦艦 伊勢型戦艦

伊勢型戦艦「伊勢」「日向」は「扶桑」型戦艦のあとに建造された超弩級戦艦です。もともとは扶桑型戦艦の3番艦、4番艦として建造される予定でしたが、扶桑型の問題点を解消するために設計を見直した別の型「伊勢型」として建造されました。そんな伊勢型戦艦の1番艦「伊勢」は1917(大正6)年12月に竣工、2番艦「日向」は1918(大正7)年4月に竣工します。

その後、小さな改装を実施していましたが、長門型戦艦などと同様に1934(昭和9)年から2年にわたる大改装が実施されます。この大改装により、伊勢型戦艦は太平洋戦争開戦時においても長門型戦艦に次ぐ主力艦として期待されていました。しかしいざ開戦すると伊勢型戦艦が活躍する場はなく、加えて長門型戦艦も... 高速を誇った金剛型戦艦を除くと戦艦に活躍の場はありませんでした。

航空戦艦へ

そんな伊勢型戦艦ですが、日本海軍が1942(昭和17)年のミッドウェー海戦により4隻の正規空母を失ったことで運命が大きく変わります。それは空母への改造。戦前からの日本海軍の計画では昭和17年度に竣工する正規空母はありまえせん。半面、アメリカは昭和19年以降はエセックス級空母の配備がはじまります。そのため、計画を変更し空母の増産をはじめます。その中のひとつが巡洋艦・戦艦を空母にする計画。当時訓練中の事故により五番砲塔がなくなっていた日向に白羽の矢がたちました。完全な空母にする案もあったようですが、工期を優先し後ろ半分を飛行甲板にすることに。同型艦伊勢も同様に航空戦艦とし、この2隻で航空戦隊を編成します。

十八改装とも言われるこの航空戦艦への改造は伊勢、日向ともに半年程度で工事が完了。航空戦艦となった伊勢の姿がこちらです。この改装にあわせて多くの対空火器、および電探が装備されました。伊勢の姿、みてわかるように空母としての運用に十分な甲板はありません。航空機の運用は航空機の発艦には射出機(カタパルト)を使用し、着艦はしないというもの。そのため、発艦した航空機を着艦させるため別空母と一緒に運用する必要がありました。

大和ミュージアムにある伊勢の模型

そんな伊勢型航空戦艦には「瑞雲」と「彗星」を22機ずつ、合計44機を搭載する予定でした。しかし開発の遅れから配備がすすみません。配備される航空隊は第六三四航空隊だったのですが、伊勢・日向に搭載されて出撃する前に台湾沖航空戦に出撃し大きな被害を受けます。その後、この第六三四航空隊が伊勢・日向に搭載されることはありませんでした。結果、航空戦艦となった伊勢・日向ともに航空機を搭載することなく、戦艦として決戦に参加することになるのです。

決戦、そして終戦へ

決戦は捷一号作戦。「伊勢」「日向」ともに小沢治三郎中将が率いる第一機動艦隊隷下として出撃します。この作戦についてはここで記すまでもありません。小沢艦隊は戦艦大和を中心とする栗田艦隊がレイテ湾に殴り込みをかけるための囮部隊... そして小沢艦隊は囮としての役割を果たしました。このエンガノ岬海戦では4隻すべての空母(空母「瑞鶴」軽空母「瑞鳳」「千歳」「千代田」)が沈みましたが、「伊勢」と「日向」は奮闘。松田千秋司令官、中瀬泝艦長の巧みな指揮・操艦により命中弾を受けることがなかっただけでなく、充実した対空砲火により米航空機を迎撃しました。

このエンガノ岬海戦のあと、2隻は内地へ帰還しますが、最後の任務が与えられます。それは南方への武器弾薬、物資の輸送。航空戦艦の伊勢型2隻は航空機を格納するために後部に大きな格納庫を持っています。この格納庫に武器弾薬、物資を満載するのです。伊勢型戦艦2隻を含む艦隊「H部隊」はこの輸送作戦を無事に完了します。その後、内地への帰還を命じられ今度は航空用ガソリンやゴム、タングステン・銀などを満載した部隊「完部隊」は内地に戻ります。作戦名は「北号作戦」。これが「伊勢」「日向」の最後の作戦となりました。

作戦を無事に完了させ、貴重な物資を運んで内地に戻った「伊勢」「日向」ですが、すでに日本には戦艦を動かす燃料がありません。そのため、「伊勢」「日向」は予備艦に指定されます。

そして1945(昭和20)年3月の呉軍港空襲。このときの被害は軽微だったものの、終戦間際の7月24日の執拗な空襲で「伊勢」「日向」ともに大破着底となりました。下の写真は大和ミュージアムにある大破着底した「伊勢」の姿です。

大和ミュージアムにある着底した伊勢の写真

二番主砲を空に向けているのがわかります。対空戦闘のために発砲したのでしょう。浮揚解撤記念碑の写真を撮るときに呉軍港空襲を体験されている地元の方と会話する機会がありました。その方が防空壕に避難していていたときのこと。布団を被っていたのですが、伊勢が主砲を打つとその布団、体がとびあがるほどだったそうです。

昭和20年7月、残り少なくなっていた主力艦である「伊勢」... 戦艦の持つ力強い主砲で最期まで日本を護ろうとしたのでしょう。終戦後に引き上げられて記念碑が建つわけですが、こういった艦だったということはもっと知られていいのではないかと思います。

最後に引き上げられた後のことを少し。NHKアーカイブスで見つけることができる(日本ニュース 戦後編 第97号 軍艦住宅 呉<時の話題>)のですが、引き上げれた伊勢の艦橋に西原正三さんという方が住み込んだそうです。ニュースでは「すばらしい鋼鉄の家です」とまとめていましたが、その後どうなったのだろうとちょっと気になるところです。

参考にした書籍など

  • (2014年7月号)特集 ハイブリッド戦艦の軌跡 伊勢・日向

このページの公開日:2014.09.18

コンテンツメモ

  • 訪問日:2014.09.06
  • 場所:広島県呉市
  • 行程:広島高速 - 国道31号
  • X-M1 + XC 16-50mm F3.5-5.6 OIS

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