安芸の国から

安芸の国に暮らすおじさんのお出かけ記録です

旧帝国陸軍:比治山陸軍墓地

終戦記念日を数日過ぎた8月18日、比治山の陸軍墓地を訪れました。これまでにも何度か訪れているのですが、こうやってホームページに載せるのははじめてです。

比治山の陸軍墓地入口

比治山陸軍墓地の歴史

この比治山の陸軍墓地は太平洋戦争後に再建されたものです。その歴史については私が記すよりも、書かれている説明をお読みください。

比治山の陸軍墓地入口から望む

入口横に記されているの市による説明です。

この墓地は、1872年(明治5年)、広島鎮台(後の旧陸軍第5師団)が設置される前年に、この地比治山に設置されました。

その後、1877年(明治10年)の西南戦争から1941~1945年(昭和16~20年)の太平洋戦争まで、日本国内や海外において戦争により亡くなった多くの人々が葬られています。

墓地は、1944年(昭和19年)に墓石の整理統合のため、その大部分が移設等集約されましたが、原子爆弾の投下により多大な被害を受けました。その後、終戦後の混乱期を経て、多くの人々の奉仕活動により今日の姿に再建されました。

この墓地には、約3,500基の墓石とともに、全国から多くの人々の遺骨が合葬されています。また、当地の南側には多くの慰霊碑が設置されています。

さらに、日清戦争、北清事変(義和団事件)及び第一次世界大戦により広島で亡くなった中国、フランス及びドイツの人々も葬られています。

1995年(平成7年)1月

広島市

建物の中に入るとこの比治山陸軍墓地の説明が2つ記されています。

比治山陸軍墓地 略誌

比治山陸軍墓地略誌

昭和十九年比治山陸軍墓地の埋没廃棄!ああこの冒涜こそ恐るべき原爆を以て啓示された厳しい天譴でなかつたろうか。

抑、比治山陸軍墓地は明治草味より世界の日本となつた八十年の我国運を示す西南の役、日清、北清、日露の役より満州事変を経て大東亜戦に至る四千五有余の殉国の勇士 -それは沖縄を除く四五都道府県に及ぶ- を葬った墓地であり東は号砲台(現在のNHKテレビ塔)を境として比治山の西南高地一帯に亘り現在の再建墓地 ABCC展望台を含む景勝の地域に一基一基整然と建立され、春は桜花の霞に包まれ、秋は紅葉の錦に飾られ、展望台に至る現在の道路は墓参道として、之を上って毎年のお盆には市民は競ふて盆燈籠を捧げて英霊の冥福を祈った崇敬の聖地であつたのであります。

然るに昭和十九年軍市協議の下に全墓標を取り除きこれを合同墓碑に奉安合祀うるに決し、墓石は現在の再建墓地附近に掘った壕に埋め遺骨も堀起して仮納骨堂に収納することになつたのでありますが工事半ばにして原爆と終戦になりましたため墓石の或ものは壕を充たした土饅頭下に或るものは地上に折られ砕かれたままとなり、遺骨も亦数次の颱風のため倒れた仮納骨堂の周辺に散乱し、原爆の灰と共に十数年間放置されたのであります。英霊ために天に泣き地に哭しその惨状誠に目の覆ふものがあつたのであります。

このとき大正十四年以来陸軍墓地を守つた岩田日出子女史(現在八十五歳)は、故立石吾一氏、村田安弘氏等と再建の誓を堅め、昭和三十年より五年の永きに亘り寝食を忘れて広く浄戝の寄進を求め、昭和三十五年終に現在の墓地を再建し再び英霊が安住する聖地としたのであります。四千五百余の重い墓石を掘越し、一基二千貫に及ふ大合同墓碑の建直しや、数多き折れた墓石の組合せ、洗い清めての墨入出生地を拾つての県別整置と遺骨を集めての合同納骨墓名簿の作製等、その労苦誠に筆舌に尽くし難く、聞くだに自ら頭の垂れるを覚ゆるのであります。私共は此再建なつた比治山陸軍墓地を参拝する毎に、敬虔心新たに常人のなし得ない此偉業を成し遂げた上記の方々と多額の浄財を寄進された同憂の士に対し英霊に伍して衷心から謝意を表すると共に今爾大戦の敗戦で受けた体験から此墓地に眠る多くの英霊が命を捧げた日清、日露の役に若し勝敗その所を異にしたら我國の存立は、どうなつたてあろうかが思い出され、此墓地を末永く英霊が安住する聖地とし、ひたすらに勲をたたへて静かにその冥福を祈ることが世界平和に立ち上がつた広島市民の責務であり、悠久日本の平和と隆昌を期し得る途であると信ずるものであります。ああ再び天譴を受くる勿れ!! 私共はかく思いかく誡め、毎日行う焼香、供花、清掃、今尚英霊の瞼に焼きついている日の丸掲揚の勤行と、毎月十日の月並法要、春秋二季の大法要を永遠に継続することを誓うものであります。

本墓地の最奥には日清戦役、北清事変、日独戦争に於て広島陸軍病院に入院中死亡された清國、仏國、独逸兵の墓地が昔ながら現存し法要を共にして居りますが、大正十四年以来之が清掃保全に努力された岩田日出子女史の清掃奉仕会方々に対しても心からの感謝を捧げると共に、此真心が東亜各地の原地の人々にも通じて異郷に眠る多くの我同胞のお墓を暖かく見守って戴くことをお祈つて已まないのであります。

終りに臨み毎年三月十日、広島市長が英霊のために丁寧な慰霊祭を行つて下さることを特記し、遺族の方々と共に謹んで感謝の御礼を申上げるものであります。

尚本墓地の墓名簿は県別に原籍、氏名、命日、戦病死地及墓石の位置を記録して保管してありますから、御用のお方は当協賛会事務所にお問合せください。

昭和三十九年四月十日

比治山陸軍墓地保存協賛会

比治山陸軍墓地墓誌

比治山陸軍墓誌

ここに殉国の誠を鎮め その英霊を浄めんとするにあたり 誰か 遠き肉親を思い そのはらからを偲ばぬものがあるであろうか

或るいは明治を思い 大正を偲ぶもよい 西南の役以来 全国にわたる四千五百有余柱の靴音も今ここに聞える思いである あの日 広島の砂に残した歩みには たゆまざる民族の前進があった 世界に呼びかける成長の息吹があった いらい 九十有余年 はらからはここに眠つたのである しかし大東亜の戦いのさ中 その骨は掘られ その墓石はくだかれた ある者は納骨堂に合祀したとはいえ そのおおくは無縁の地上に散乱したままであつた この間幾星霜 魂は天を呼びつづけ また仏心は地を求めた 村田安弘こそその声を聞いた最初の人であった 立石吾一 岩田日出子 また 路を開き 石を組み ここに礼拝堂を設けた人である 市民はここに墓を洗い またある者は 墨をここに改めた

出陣や 桜みながら 宇品まで

かつての日 子規 もまた訪れたというこの地である

あゝ ここにすべての面影をしるす

昭和三十六年三月十日再建

比治山旧陸軍墓碑復興会

墓地に入ります。墓石が隙間少なく整然と並んでいます。

比治山陸軍墓地 入口を入る

この日も大変暑かったのですが、お線香をあげられ手を合わせている方もいらっしゃっていました。

比治山陸軍墓地墓石数

入口には県別の墓石数が記されている説明板が。

比治山陸軍墓地 不明墓砕 五百余柱 共養碑

右側には不明墓砕五百余柱の共養碑があります。

比治山陸軍墓地 陸軍軍人合葬之墓

左側には陸軍軍人合葬之墓。騎兵隊に関係する方々のようです。

中へ入っていきます。真ん中ほどまで進むと右に大きな合葬之墓が。

比治山陸軍墓地 日清戦役 陸軍軍人合葬之墓

日清戦役の陸軍軍人合葬之墓のようです。

さらに進むと大きな5つの墓柱が。

比治山陸軍墓地 並ぶ5つの墓石

とても大きなものです。

この奥には多くの慰霊碑が。陸軍歩兵第11連隊を載せます。

比治山陸軍墓地 歩兵第十一連隊慰霊碑

右側に記されていたのがこちら。

戦士は眠りぬ

歩兵第十一聯隊は明治八年広島市に創設され、郷土出身の兵士を中核として明治、大正、昭和の三代にわたり累次の戦争に参加した

その最後の舞台は、昭和十二年支那事変の勃発とともに出征し、中国、マレーシヤ、ニューギニヤの各地に転戦した征旅であったが、聯隊はついに再び故山にまみえるいとまもなく 昭和二十年八月大平洋戦争の終焉とともにシンガポールにおいて聯隊将兵の万斛の涙のうちに聯隊旗を奉焼してその七十年の歴史を閉じた この間戦野に斃れ伏したるもの二千四百余名

戦後三十数年を経て、ようやくにして老残を養うに至った生存者は、これら戦没者に対する哀惜の情もたし難く、遺族の悲願もこれに加えて、ついに慰霊塔の完成を見るに至った

悠々たる歴史の歯車のうちに消え去ったこれら戦没者の犠牲が、いささかなりとも人類の未来に重みを加えんことを

今この地に無名の戦士は静かに眠る

昭和五十六年五月九日

今回はあまり文章を載せませんでした。載せるだけの知識がないということもありますが(汗)、こういった陸軍墓地は各地にあります。このページに辿り着いた方が気になったら訪れてみる、あるいは調べてみててくれればと思って... 私自身ももっと調べてみようと感じたのでした。

このページの公開日:2013.08.23

コンテンツメモ

  • 訪問日:2013.08.18
  • 場所:広島市南区
  • 行程:平和大通り
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