安芸の国から

安芸の国に暮らすおじさんのお出かけ記録です

旧帝国陸軍:陸軍運輸部 / 船舶司令部

広島には陸軍の船舶および鉄道輸送を統括する陸軍運輸部が置かれていました。これは広島県県令(県知事)千田貞暁が広島を一大軍事基地とすべく5年の月日と多くの費用をかけて宇品港を1889(明治22)年を完成させたことからはじまります。

宇品中央公園の旧蹟陸軍運輸部船舶司令部

陸軍の船舶輸送を担当

陸軍で船舶輸送というのも不思議な感じがしますが、太平洋戦争終戦まで陸軍の作戦のための海上輸送は陸軍船舶部隊の担当だったとのこと。海上輸送と一言で記すと難しくなさそうですが、日本の陸海軍間では

人馬や軍需品を安全かつ能率的に積み込むための付属設備と、安全かつ迅速に揚陸するための接岸設備、更には、泊地の輸送船から敵岸迄の輸送用舟艇、および、その行動を直接に援護するための戦斗用舟艇などの研究開発は陸軍で担当するという協定があったと伝えられている

とのこと(ただし協定の日時、内容は明らかではない)。兵員や軍事物資を運ぶだけでなく、敵前上陸まで陸軍が担当するということです。こういったことから、陸軍運輸部を中心として大発動艇(大発)が開発されたのでしょう。

そんな陸軍運輸部・船舶司令部の略年表です。

1894 (明治27)
宇品港に運輸通信支部を開設。事務開始
1896 (明治29)
陸軍運輸通信部宇品支部に改名
1903 (明治36)
陸軍運輸部条例発布
1937 (昭和12)
第一船舶輸送司令部設置
1940 (昭和15)
第一船舶輸送司令部が廃止され船舶輸送司令部を新設
1942 (昭和17)
船舶輸送司令部が廃止され船舶司令部を創設
1945 (昭和20)
陸軍運輸部廃止

日清戦争の頃に始まり太平洋戦争が終わるまで続いているのがわかります。船舶司令部の部隊はすべて秘密保持のため「暁○○○○部隊」という呼び名が与えられていました。「暁部隊」という名を聞いたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか?

太平洋戦争後半になると輸送部隊から戦闘部隊といった感に。四式肉薄攻撃艇(秘匿名称「マルレ(○の中にレ)」)の操縦者として船舶幹部候補生たちも陸軍海上挺進戦隊」に選ばれました。そして実際に戦闘に参加し、非常に多くの若者たちが亡くなっています。

そして戦中はとても多くの兵士たちがこの宇品港から戦場へ向かいました。その中心的役割を果したのが陸軍桟橋と呼ばれた六管桟橋です。

宇品みなと公園の陸軍桟橋碑

宇品波止場公園にある陸軍桟橋の歌碑です。裏に説明文が書かれています。

趣意

宇品に陸軍運輸部が置かれ、一筋の石積みの突堤が沖に向かっていた。広島の市民はそれを陸軍桟橋と呼んだ。そうして日清戦争から太平洋戦争にかけて、兵らはその突堤から沖に待つ輸送船に乗り移り、遠い大陸と島との戦場に送り出されるのが例となっていた。彼らの多くが戦死し、再びこの突堤には戻らなかった。

戦争が遠く過ぎ、あたりは埋め立てなどにより姿を変えたが、今、埠頭の片側の岸にわずかにかつての面影をとどめる。

わたしたちは平和のために、ここに陸軍桟橋があったことの記憶を受け継がなければならない。

一九九八年(平成十年)十二月 近藤芳美 記

陸軍桟橋跡記念碑

建立委員会

公園として整備されましたが、上記説明にあるように一部は当時の護岸が残されています。

宇品中央公園の陸軍桟橋(六管桟橋)

その当時の護岸です。石積みの一部は公園に説明とともに展示されています。

宇品中央公園の陸軍桟橋(六管桟橋)石積みのモニュメント

そしてこの公園からは金輪島を見ることができます。この金輪島は陸軍運輸部と非常に関係がある島です。

金輪島全景

陸軍運輸部の工場があった金輪島

金輪島は1894(明治27)年に日清戦争のために軍用艀舟として漁舟若干隻を改造したときにはじまります。1896(明治29)年に土地を買収し、工場や寄宿舎などを構築、さらにその後も大きくなり運送船の艤装、修理などもできるような工場となりました。戦後は民間会社が施設を引き継ぎ、現在は「新来島宇品どっく」となっています。

金輪島 工場

金輪島へは市営桟橋から連絡船がでています。上写真はその船上から。これら設備の中に太平洋戦争当時のものがあるのかどうかは不明です。

金輪島は陸軍の工場があったためでしょう、防空壕らしき穴がとても多く見つかります。

金輪島にある地下壕

こちらは見つけた防空壕の中でも大きなもの。小さなものやちょっと高いところにあるものなど、とても多くの防空壕(らしき穴)を探すまでもなく見つけることができます。

そして当時に掘られたであろうトンネルも。

金輪島の旧随道(トンネル)

工場のある東側と特に何もない(?)西側を結ぶトンネルです・・・ 1996年に新しい立派なトンネルができたのですが、それまでは現役で使われていたのでしょうか? こちらは西側の入口なのですが、中を覗いてみました。

金輪島の旧随道(トンネル)、中を覗く

東側の出口から入る光が見えます。ちなみにこの写真では明るいですが、フラッシュを焚いているためです。実際には東側の出口から入る光以外は暗闇の世界(苦笑)・・・ 太平洋戦争当時ならばまだしも、ホントに1996年にトンネルができるまで使われていたのだろうか・・・ 中を見ると改めてそう感じます。

原爆投下と終戦

広島に原爆が投下された際、広島城のまわりに駐屯している陸軍部隊は壊滅的被害を受けましたが、宇品に駐屯していた船舶司令部は大きな被害を免れました。そのため、暁部隊の兵士は市内の救護活動に尽力し負傷者を宇品に搬送したりしました。しかし多くの方が亡くなったことは言うまでもありません。

太平洋戦争では800万総トンの日本商船が失われました。そして6万人もの徴用された船員が亡くなっています。船員の損耗率は兵士のそれを大きく上回っているといいます。兵士だけでなく、多くの方の犠牲で今の日本があるということを覚えておきたいものです。

参考にした書籍など

このページの公開日:2012.02.18

コンテンツメモ

  • 訪問日:2012.02.05, 11, 12
  • 場所: 広島市南区
  • 行程:金輪島会(広島市営桟橋~金輪島)
  • EOS 7D + EF-S 15-85 F3.5-5.6 IS USM

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