安芸の国から

安芸の国に暮らすおじさんのお出かけ記録です

旧帝国海軍:特殊潜航艇甲標的の基地、倉橋島

11月1日に甲標的の基地があった呉市倉橋島へ出かけました。倉橋島には大浦崎のP基地跡、八幡山神社、大浦崎対岸の大迫海岸にあるQ基地跡があります。

甲標的とは?

一言で言ってしまえば、先端部に魚雷管を2本持つ超小型の潜航艇です。秘匿名称として「甲標的」という名がつけられました。攻撃終了後は乗組員を潜水艦で収容することが前提となっており、回天と違って必死の兵器ではありませんが、後に記す真珠湾攻撃、シドニー攻撃、マダガスカル島攻撃においても乗組員を収容することはできませんでした。最初の甲標的甲型(2人乗り)は充電ができないといったこともありましたが、戦訓をもとに改良が進められ、甲標的丁型(蛟龍と呼びます:5人乗り)では作戦可能日数も3日程度に増えています。

ところで、回天を提唱した黒木博司大尉、仁科関夫中尉はともにこの甲標的搭乗員として訓練を受けていました。しかし甲標的では戦局の挽回をはかることはできないと考え、回天の思想になっていったといわれています。

大浦崎基地(P基地)

特攻基地大浦崎(P基地)の碑

特攻基地大浦崎(P基地)の碑

基地があったといっても、現在その跡を示すものは下の画像に示すように少なく、この場所に特殊潜航艇甲標的の基地(秘匿のためP基地と呼ばれていた)があったということを想像することも難しくなっています。この碑が、唯一基地があったことを記す存在となっているといっても過言ではありません。碑文には次のように書かれています。

昭和17年10月極秘裏に工場の建設が始められ、翌18年3月創業開始 これが特殊潜航艇(甲標的)製作専門の呉海軍工廠分工場であった。 また時を同じうして搭乗員の養成が始められ受講者は艇長、艇付、合せて2600名内、戦死者は439柱に及んだ。 当基地の任務は甲標的の生産、搭乗員の養成、特攻兵器の研究、開発で、昭和20年になると甲標的丁型(蛟龍)の完成をみ一方回天(人間魚雷)も実用段階に達して来るべき本土決戦に備えたが、同年8月15日終戦をむかえて基地は廃止され現在では平和な公園、町民いこいの場所となっている。  平成4.2 建立

P基地の遺構

大浦崎(P基地)の遺構
大浦崎(P基地)の遺構
大浦崎(P基地)の遺構

碑から県立水産海洋技術センターへ向けて歩いていくと、数は少ないですが、いくつかP基地の遺構を見つけることができます。県立水産海洋技術センター敷地内の建物は別として、他は荒れ放題となってしまっています。

八幡山神社

続いて立ち寄ったのが八幡山神社。入口の階段横に特殊潜航艇の碑(嗚呼特殊潜航艇)があります。この画像では裏側に書かれている碑文を記します。

八幡山神社 嗚呼特殊潜航艇の碑

昭和十六年十二月太平洋に戦端開くや長躯してハワイ軍港に潜入 米艦隊主力を強襲して緒戦を飾れるは我が特殊潜航艇甲標的なり即ち特別攻撃隊の初とす 次で西にマダガスカル 南はシドニーに遠征 英濠艦隊を震撼せしめ全軍の士気大いに振う 更にキスカに ソロモンに転戦して戦局を支え 特運筒また前線の補給に挺身す 時に部隊は基地をここ大浦崎に設け訓練また死生の間に進むも 戦勢ようやく利あらず敵軍しきりに我が近海を侵す 我隊これを各地に迎え撃ち ミンダナオに沖縄に蛟龍の戦果見るべきあり 回天またこの地に発して奮迅し 海龍ともども本土決戦に備う 二十年八月遂に兵を収め戦没並びに殉職の英霊三百余柱を数う 戦友ここに相計り その勇魂を仰慕し 特殊潜潜航の偉功をたたえて後世に傳う  昭和四十五年八月 特殊潜航艇関係者志建之

八幡山神社 嗚呼特殊潜航艇の碑うしろの特殊潜航艇

こちらは碑の後ろにあった絵(?)です。左上から海龍 / 回天一型 / 蛟龍(甲標的丁型) / 甲標的甲型 / 特型運貨筒 が書かれています。

八幡山神社 マダガスカル島ディエゴワレス港銘板

上の嗚呼特殊潜航艇の碑に書かれているように甲標的の初の実戦は太平洋戦争のはじまりとなった真珠湾攻撃になります。空母艦載機による攻撃はあまりにも有名ですが、それよりもはやく先行していた潜水艦から5隻の甲標的が真珠湾に侵入。しかし、戦果をあげることはできず、5隻全て未帰艦に。この事実が発表されたのは3ヶ月後の昭和17年3月。この攻撃隊の戦死者9名(一人は捕虜になった)は「九軍神」とされました。

この真珠湾攻撃のあと、第二次攻撃として翌年5月末にシドニー港攻撃とマダガスカル島のディエゴワレス港の攻撃を行なっています。左側の碑は攻撃したマダガスカル島のディエゴワレス港に建立されていた碑のものです。説明には「この銘版は1942年5月30日マダガスカル島ディエゴワレス港所在英国艦攻撃成功後、上陸、山中を踏破し母潜水艦を望む丘に到達しながら英軍に発見され戦死した特殊潜航艇搭乗員を偲び建立された碑のもので、長年風波に曝され老朽甚だしく新品と交換され日本へ送られた初代銘板です。」と書かれています。

一方、シドニー港攻撃においても搭乗員は帰艦することはできませんでした。この後オーストラリア軍は自爆した2隻の甲標的を引き上げ、1隻に復元しキャンベラの戦争博物館に展示しています。そしてこの甲標的による攻撃の勇敢さを讃えて敵国にもかかわらず、甲標的の乗員4名(松尾大尉、都竹兵曹、中馬大尉、大森一曹)の海軍祭を行ないました。

このシドニー港攻撃については続きがあります。昭和40年に上に書いた戦争記念館の館長夫妻が松尾中佐の墓を参り、母親を訪問しています。また昭和43年には母親がシドニーに招かれました。首相ボードン氏は官邸に招待し「勇敢なご子息を持たれて名誉ですね・・・」と歓迎の言葉をかけています。

それにしても、「生きて虜囚の辱を受けず」という捕虜となることを恥としていた教えのせいで、無駄に死んでしまった軍人がどれだけ多いことでしょう。他国ではなかったこの考え方・・・ ホントに意味がないだけでなく、馬鹿げたものだと思います。

大迫海岸のQ基地

八幡山神社を後にして大迫海岸のQ基地跡へ向かいました。P基地と違って場所が曖昧・・・ 無事に辿り着くことができるか不安があったのですが、なんとか辿り着くことができました。

大浦突撃隊大迫支隊(Q基地)の碑

大東亜戦争方に酣に敵の反攻頓に熾烈を加ふる昭和十九年四月 海軍は此処に機密訓練基地を設け 対岸大浦崎の特殊潜航艇P基地に呼応してQ基地と称す 同年七月第一特別基地隊の編成なる おのの麾下に入り二十年三月大浦突撃隊大迫支隊と改称 決死報国の将兵二千を聚む処 是碧河清冽の地 隊員維悉純忠の士 朔風炎熱を冒し 敵必滅の戦技を練り 勇躍出撃せる若桜又少なからず 然るに同年八月忽として終戦の詔を拝し 整然隊を解く 爾来五十余星霜 茲に往時を追懐し名碑を刻して後世に傳う

大浦突撃隊大迫支隊(Q基地) 桟橋跡

こちらは桟橋の遺構です。潮が満ちているのでわかりにくいですが、目を凝らすと桟橋が延びているのがわかると思います。この桟橋から厳しい訓練に向かったのでしょう。

甲標的、第二次攻撃の後

甲標的はシドニー港攻撃とマダガスカル島のディエゴワレス港攻撃の後、ガダルカナル島でゲリラ作戦に参加しています。このガダルカナル島での作戦では、半数以上の搭乗員が生還できたことで局地兵器としてあらためて見直されたということです。

その後は本土決戦に備え、甲標的丁型(蛟龍)が開発・生産されたことは特攻基地大浦崎(P基地)の碑に記されているとおりです。回天や海龍とともに各地への配備もすすめられていましたが、ポツダム宣言を受諾したことにより、終戦。甲標的丁型(蛟龍)が実際に使用されたのは沖縄戦だけでした。

九軍神とされたのは真珠湾攻撃時の乗組員だけでしたが、自分の大切な何かを護ろうと決死の覚悟で攻撃に出た若者たちの気持ちは忘れないようにしたいものです。こういったことを書くと右よりな者と思われがちですが、そんな若者たちの気持ちを大切と考え忘れないことは何も特別なことではないと思います。オーストラリア軍がシドニー港攻撃で亡くなった搭乗員を敵にも関わらず手厚く葬ったこともそういった気持ちからでしょう。無条件に戦争を肯定することは間違っていますが、その中で大切な何かを護ろうとした若者の心は心に留めておきたいと思います。

参考にした書籍

甲標的について書かれている書籍です。ちなみに、板倉光馬氏は黒木博司大尉、仁科関夫中尉とともに回天隊に立ち上げから関わり、終戦まで指揮官として回天隊の統括をしていました。また、潜水艦隊の表紙に写っているのが蛟龍です。

このページの公開日:2008.11.11

コンテンツメモ

  • 訪問日:2008.11.01
  • 場所:広島県呉市
  • 行程:国道2号 - 国道31号 - 国道487号
  • EOS 40D + EF-S17-85 F4-5.6 IS USM

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