安芸の国から

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大和ミュージアム:企画展『「海軍」が来た』

4月11日に大和ミュージアムで行なわれている企画展『「海軍」が来た ~「呉浦」から呉鎮守府へ~』(期間:平成20年4月2日~5月12日)を観に行ってきました。呉が鎮守府の地に選ばれた経緯から鎮守府の開庁までが紹介されています。

企画展 「海軍」が来た0

呉に「鎮守府」が開庁するまで

展示は入口から歴史に沿ってパネルが展示されていました。また、パネルによる説明のほかにもさまざまな資料が置いてあり、ナカナカ面白い。平日ということで、ゆっくりパネルを見ることができたのもよかったです。

ところで「鎮守府」とは?

企画展 「海軍」が来た1

ひと言で記すと「海軍の拠点」でしょうか。パネルにあった説明によると「艦船の統率・補給・出動準備、兵員の募集・訓練、施設の管理運営にもあたる海軍の地方軍政機関」とのことです。

そんな「鎮守府」のはじまりは1876年までさかのぼります。日本を2つにわけて「東海鎮守府」と「西海鎮守府」を設置することが決まり「東海鎮守府(その後移転して横須賀鎮守府に)」が設置されました。その後1886年に5海軍区に分けることになり、候補地選定を経て1889年に呉鎮守府(第2海軍区)が開庁。その他は佐世保(第3海軍区)と舞鶴(第4海軍区)に開庁されています。室蘭(第5海軍区)にも予定されていましたが、見送られました。

呉が選ばれた理由

企画展 「海軍」が来た2

さて、鎮守府としての候補地は前述した「西海鎮守府」(三原に仮設)が調査を行ないました。呉のほかに、尾道湾や江田島が調査されたようです。何度か行なわれた調査の結果、呉は「山や島々に囲まれていて波風が穏やか」「造船や兵器の製造に適し」「地形的に防備に優れている」ということで、第2海軍区の鎮守府は呉に設置することが決定しました。

防備に優れているという面を具体的に記すと、呉は3箇所の入口がありますが、そのうち音戸の瀬戸と早瀬の瀬戸は非常に狭いということ、もうひとつの大屋の瀬戸は砲台を築くことにより敵艦隊の進入を防ぐことができ、その砲台は容易に構築できるということ、また陸においては背後に休山などが防御となること、といったことが優れていると認められました。

鎮守府開庁へ

企画展 「海軍」が来た3

実際に鎮守府を設置するにあたって、当たり前ですが該当の土地の買収が進められます。そうすると土地の価格が急騰し、土地を売った人や移転することになった人たちが新たな土地を手に入れることが難しくなったとのこと。いつの時代でも、そういったことが起きるのですネ(苦笑)。この問題は当時の安芸郡長らによる海軍側への粘り強い運動のにより決着したとのことです。

鎮守府工事の元請けとして大倉組商会と藤田組という名が書かれていました。大倉組商会の流れを汲むのが今の大成建設、藤田組は藤田観光とのこと。やはり、こういったところにその起源(?)があるんだな、と感心したのでした。

こうやっていろいろとありながら、呉鎮守府は1889年に開庁しました。その後、太平洋戦争の終戦(呉鎮守府廃止は1945年11月)まで大きな役割をしたことはここに記すまでもないでしょう。

このページの公開日:2008.10.14

コンテンツメモ

  • 訪問日:2008.04.11
  • 場所:広島県呉市
  • 行程:国道2号 - 国道31号
  • EOS 40D + EF-S10-22 F3.5-4.5 USM

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